松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

植民地主義の使用法メモ

フランツ・ファノン

1960年代後半から70年代初め、現代社会のさまざまな病弊に怒りを感じて起ち上がろうとした人々にとって、文化大革命は、ベトナム戦争とともにひとつの夢とユートピアを与えてくれた「革命」であった。
p239 加々美光行「逆説としての中国革命」 田畑書店

その大きな予兆としてファノンの一冊の本を挙げる、加々美は。

1961年 アルジェリアの革命家フランツ・ファノンは36歳で白血病によって急逝したがその死の直前に書いた「地に呪われたる者」によって、AALA をはじめ欧米と日本の学生・知識人の心を大きく揺さぶった。p241

ファノンは宣言した、帝国主義植民地主義的支配に対し、植民地「原住民」が無条件の暴力をもって立ち上がることを。
(今までのマルクス主義者など左翼が)ヨーロッパ的なるものを依然として人類史にとって進歩を測る決定的基準であるとみなしてきたことに対して、これを真正面から否定した。p241

だからファノンはこう述べた。
「我々の夢と訣別することが必要だ。不毛なくり言やヘドの出るような猿真似に空しく時を費やすまい。ヨーロッパのあらゆる街角で、世界のいたるところで、人間に出会うたびごとにヨーロッパは人間を殺戮しながら、しかも人間について語ることをやめようとしない。このヨーロッパに訣別しよう。……たえず人間を語ってやまなかったヨーロッパ、たえず人間に心をつかうと公言してやまなかったヨーロッパ---その精神の獲得した勝利の一つ一つに、人類はどれほどの苦悩を支払ってきたか、今日われわれはそのことを知っている。」p242

今日レイシズムを語る人は

そのことによって、自分を普遍(ヨーロッパ)の立場において、上からネトウヨを馬鹿にしうる立場を、あまりにも容易に手に入れてしまう。
彼らに欠けているのは、ネトウヨが屑であるなら自分もまた負け犬に過ぎないとする自己否定の契機である。

土人=怠け者言説について

「また、植民地主義的な言説がなぜこれほど頻繁に、植民地化された者を無責任と形容するのか」それも「ある構造的な状態の分析によるのではなく、避けることのできない性質の断定によって」、とエドゥアール・グリッサンは書いている。*1
 植民地化された者は偏見を持たずに形容しようとしても、どうしても能力において劣る、とか怠け者であるあるいは反抗的である、といった規定から逃れることができないこと。植民地化された者として生きるとはそうしたことであろう。
 ところで福島県出身者一般に対しそんな差別は存しない。したがって福島に対し、「植民地」といった言葉を使って論じるのは不適切である。(7/8 記)

*1:p84 「思想」2010年9月号