松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

松下昇『概念集』の一部への感想 5

66 余事記載

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裁判所に提出した文書の中で、裁判所が考える現実の構成にとって不要である要素は、裁判所にとってどうでもよいできごとであり、審理の対象になることはない。当事者の発言の一部が審理の対象にならないのは裁判所にとって(そして同じ法的常識を共有する弁護士にとって)当然のことなのだ。

「私の提出した文書にある「~を含む仮装被告団」の表現を余事記載であるとして私に削除を要求したので拒否すると、裁判官が決定で削除したこともある。」「~を含む仮装被告団」というものが松下以外のひとり以上の特定の個人を含むものであり、その名前による文書であるなら、裁判官が勝手に削除するのは正当ではないように思われる。それとも、特定の個人(匿名であっても)が存在しないと思われたから削除されたのか、ここの文章だけではなんともいえない。

ものごとを議論する時に、権力やマスコミなどが設定した論点、キーワードに導かれた形で議論してしまうことが多い。あるいは反論するときは、護憲派的とか日共的とかのステロタイプな言説パターンをなぞるような形になってしまう。
民事裁判というのは損害賠償なりなんなり、非常に限定された獲得目標を得るためのほぼ決まった形の上で言説を交換するゲームになっている。しかし松下はそうした枠組みのなかでも、勝手に「審理や会議や発想~存在様式の変換を試みる」といった問題意識を持って主張していうことができるという方法を編み出した。当事者(提起主体)には時間や方法を選ぶある程度の自由があるのだ。獲得目標という常識的な発想にとらわれていると、そうした自由を行使せずに終わるのだが。
闘いは、存在のあり方が情況によって極限的にまで歪められた時に、悲鳴として起こされることが多い。そのような場合には、情況の歪みといったものを裁判の場になんとかして表現していこうとすることは不当ではないし、むしろやっていくべきことなのだ。

 

67 プロテスト

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「自分たちがやってきたことはプロテスト以外のなにものでもなかった。現在では、この概念は新鮮な響きを失い、かってプロテストした者たちは、要領の悪いハネ上がりとしてしか見られていないが、」
このパンフが出されたのは1991年、冷戦終結の時期だ。

かっての抵抗運動は何らかの革命を期待するものであっただろうが、そのような未来が失われるならばそれは「要領の悪いハネ上がり」と切り捨てられてしまう。
2019年-2020年香港民主化のプロテストに続き、去年2月からのミャンマーでのプロテストも終わっていくかもしれない。

「というのは、私は自分のやってきていることがプロテストであるとは一度も考えていなかったからである。むしろ、私は迫ってくる問題群を楽しく再構成する素材として歓迎してきたし、敵対するように見える関係や人々があっても、それらの関係や人々が私の扱いに堪りかねて、
もうやめてくれとプロテスト!するほどに、〈作品〉の対等の登場人物ないし作者として対処してきている。」
それに対し、松下昇は孤立しても楽しげに闘い続けることを止めなかった。それは「迫ってくる問題群を再構成する素材として作品化〜表現していく」という活動自体が闘いであったからだ。

 

188 真実と虚偽の関係  (仮装の本質について)


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「aー 被抑圧存在が抑圧してくる関係を転倒していく過程で事実と異なる発言をしても、過渡的に〈正しい〉。
bー 任意の主体が、時間・空間概念を含めて私たちの存在様式を規定してくる闇の力を対象化し転倒していく過程
で事実と異なる発言をしても過渡的に〈正しい〉。
cーーa、bいずれの場合にも、過渡性を明確に報告し検証をうける未実現の場をめざす責任があり、そのことをa、bに関わる場へ公表していく度合だけ〈正しい〉。」
これは現在国家も社会も認めていない〈正義〉を基準に行動していくという宣言である。
ただし、その〈正しさ〉を関係者すべてで検証すべき場を実現していくのだ、というその実現性の度合いだけ正しい、とされる。

例えば森友事件などの情報公開請求で、真っ黒に塗られた紙が当局からの正規の解答として返って来る時、それを「闇の力」と見るのはむしろ普通だろう。マスコミや裁判所の解答としての「正義」が正義と言えないとき、別の正義が探求されざるをえない。

松下昇『概念集』の一部への感想 4

51 話と生活

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全共闘期、神戸大学で学生と共闘しつつ独自の闘いを持続しつつあった松下昇に対しては、懲戒免職が進行しつつあった。
一方で、責任者である二人の大学評議員からこんな話もあった。

「二人は、神戸大学の同窓会、特に財界グループが私に何年でも、世界のどこへでも留学させるといっているが応じる気はないか、と尋ねたので、」何年でも留学させるとは一般的には嬉しい話である。松下は自分の闘いのスタイルを確立しそれを持続していくことに自信を持っていたので、拒否した。

当局は時に、闘争の中心人物に対してこのような形で誘いを掛け、騒動(闘争)を沈静化させようとする。例えば、韓国の小説家・民主活動家黄晳暎は1985年から本来できないはずの外遊をするが、それもこのような意図からだっただろう。

「〈話〉とか〈生活〉に関して、このようなやりとりが起こりえた場所から、はるかに遠くまできている意味や、逆に、何一つ変わっていないかも知れない意味について考えてみたいからである。」
この文章を書いた1990年には松下は国内でも完全に孤立しており、可視的影響力はほとんどなくなっていた。

その意味で、はるかに遠くまできたのだ。一方、「何一つ変わっていない」とは自らの思想と行動に自負を持ちつつ「闘争」してこれたことの基盤の一部には特権的インテリとしての自己の存在様式があったことを暗示している。

55 死を前にして

666999.info彼の長男は小学校の入学式の日に原因不明の急死をした、その葬儀。
「会場がすぐには見つけられないためもあって、微かなためらいも潜在していたのだが、ともかく葬儀は、六甲カトリック教会でおこなうことになり、桜の花びらが流れる晴れた

一九七六年四月十日に、私は会場へ行き、一番前のベンチに座っていた。ミサが進行していくけれども、まるで自分には無関係な場面のようだ。六才の末宇が、永遠に巡礼してしまうとは…。私の後姿を見ていた友人の一人は、後で私の背中が会場のだれよりも大きく、六甲山系から突出する巨岩のように見えた、と批評してくれたが(後略)」

「私は果てし無い虚脱状態の中で、末宇、よくがんばったな、それにしても、タバコを吸いたい、トイレはどこかな、などと考えてもいた。」6歳の我が子を亡くした嘆きの中に突然「トイレはどこかななどと」という思念が入ってくるのは滑稽ではある。しかし松下はその滑稽さに注目してしまう。
「人間は、他のだれにも通じない苦痛や自失の中でさえ、それと一見して矛盾する感覚を潜りうる存在であり、その位置や意味を、たとえ人倫に反すると批評されようとも表現していく」べきだというのだ。

 

65 当事者

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当事者とは、裁判における訴訟行為をなしうる資格を認定された者をさす。原告と被告と法的参加人のこと。
「裁判記録の閲覧や謄写も、当事者ならば認められる。」

ある裁判で「占拠~明渡し強制執行時に留置された物品(概念集3〈空間や留置品と共に成長する深淵〉参照)に関する事件の全当事者(原告、被告、参加人)が不出頭し、裁判が休止状態になる〈事件〉が発生した。」

真実を明らかにするという祈りにおいて、真実を明らかにするために裁判は行われる場合が多い。しかし、「国」が原告あるいは被告の場合、国の主張の否定が認められる可能性は低い。その場合、国以外のAとBが裁判の場で争うという形を取ることで真実を明らかにすることができないか。
これはそうした問題意識で始められた裁判だっただろうか。

国の主張を否定する為に、国を相手に裁判をし続けるのはかなり大変なことであり、批判的意見・意志を大衆的に広める効果もある。しかし松下はそれだけでは足りない場合もあると発想した。

「各参加者の全生活~活動における当事者性や発想の様式を疑いなおすべきではないか、という」問題意識。「自らは反体制的と思い込みつつ慢性的に生活~活動している人々の中には六九年以来の成果を台無しにしながらも何か正しい意味のあることをしているという倒錯」に浸りきっている場合もあるのではないかと。

ところで、ある批判に対して、「よく判らないとか、判るように説明せよとのべて居直る者たち」が、最近のように(ツイッターでは毎日のように)発生する異常な時代が来るとは、松下は予期していなかったはずだ。何十年も前に、批判しているのは偉い。

 

松下昇『概念集』の一部への感想 3

39 華蓋・花なきバラ

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「六月四日の北京・天安門事件の際に、私は偶然に #魯迅 の「花なきバラ」を読んでいた。一九二六年三月十八日、「民国以来最も暗黒の日」にしるされた文章は、沈痛な怒りにみちているが、私たちを驚かせるのは、「…政府は衛兵をして歩兵銃と大刀とにより、国務院の門前に、外交を援助せんと徒手で請願に出むいた青年男女を包囲して虐殺させ、その数は数百人の多きに達した。しかも政令を下して、彼らを誣(し)いて『暴徒』という!(増田 渉・訳)」という事態が中国革命後に、時間を越えて一周してくることに対してである。」


(上記魯迅の文章は、手元にあった竹内好魯迅評論集』岩波新書ではp20にある。)
1926年の三・一八事件についてはウィキペディアに記事がある。

北京政府が日本など帝国主義諸国から圧力を拒否しないことに対し、学生たちがデモを行った。武装警察軍はそれを弾圧し、数十名(魯迅は数百名と書く)が虐殺された事件。

「かくのごとき惨虐陰険なる行為」と最大限の言葉で非難した政府を倒して共産党政権が出来て約40年、今度は天安門広場に集まった学生・青年たちを軍隊が蹴散らし、やはり数百人以上の犠牲が出た。
この1989.6.4の天安門事件は30年以上経った現在でも、中国では語ることは許されていない。虐殺された若者の父母の会を支援していた劉暁波は獄中死させられた。中国大陸で唯一天安門事件追悼集会を毎年開催していた香港市民の運動は去年息の根を止められた。
六四天安門事件が30年以上、ここまで絶対的な抑圧下に置かれ続けるとは松下は考えなかっただろう。
1926年のあるひとりの死者のために魯迅は、「劉和珍君を記念する」という文章を書いていることが、ウィキペディアからは分かる。
1989年に死んだある青年に対して、劉暁波は「十七歳へ」という詩を書いているが、日本でも知る人は少ない。(参考:http://666999.info/noharra/2018/04/23/r/

40 メニュー

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ここでは、「六九年段階の神戸大学の自主講座のプログラムが、どのように具体化されていたか」を記した部分を引用しておきたい。

「(1)教養部正門を入って左手の大教室B109の黒板に、今後一週間の日付と午前・午後・夜の枠のみを記入しておき、任意の参加者が、自分の提起したいテーマを希望する時間帯に記入し、実行する。ジャンルの制限なし。
(2)B109教室は全学的な集会の場として使用するのに効果的な位置にあったので、集会を自主講座のテーマとして提起する者もあり、参加者の討論を経て了承された場合には、自主講座のプログラムに入れる。他の教室や学外での活動についても同様。
(3)一週間を経過した段階で、それまでの活動に関して総括討論を行い、これに参加したものは、学内者・学外者を間わず、次の一週間の自主講座運動の実行委員会のメンバーとなる。
 このような原則に基づいて、七〇年三月の入学試験を理由とする全学ロックアウトまで約一年間にわたって、殆ど連日の自主講座が展開された。」そしてそれ以後も。

 

44 批評と反批評

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「私たちは、この企画に限らず、あるテーマについて討論する場合、関係あるすべての当事者が、その場に可視的に存在していなくても、等距離かつ対等に参加しているという関係を踏まえて討論する。これは、大衆団交(概念集・2の項目参照)の現段階での

具体的実現の困難さの根拠を踏まえつつ、この視点の変換極限から全てのテーマを対象化しようとする方法にもとづいており、想定しうる他のどのような討論の場に比べても自由かつ解放的である。」

例えば、従軍慰安婦について論じる場合、それを論じる常識的な前提から出発することはあまり意味がない。

 

そうではなく、元従軍慰安婦が参加したら何を言うか(その実例はあるので参考にすることはできる)、出来事から70年以上が経過していることの意味、また無学な植民地出身の女性が相手を訴えることができるまでの落差、また慰安婦生活のなかであるいはその直後死んでしまった人の言葉は聞き得ないという問題など多くの困難を乗り越えて、当時の当事者が実際に参加しており、等距離かつ対等に発言しうるとすればとして、その想定された発言を基に議論していくというのは、聞き慣れない方法論かもしれないが意味があると考える。ネトウヨは予め「否認したい」という欲望を隠さずそれを達成するためにエビデンスを出せないだろうという論法で迫ってくるが、彼らの前提と論法の両方を一旦無化した後でないとまともな議論にはならない。

わたしたちは元従軍慰安婦の原像を求めようとする。また従軍慰安婦を抱いた側の兵士の当時の存在性も、呼び起こした上で議論する方がより誠実であろう。論じている私たち自身が「売春」概念、あるいは侵略戦争概念に何らかの意味でとらわれていることを解きほぐしていく作業になるであろう。ただし現在は、平板などっちもどっちに陥ることを最も警戒しなければならない。

従軍慰安婦は当時年少で無学で、異国で孤立していた。被害者の苦悩や沈黙に近づくためには「表現意識の最高度の達成」(文学)が必要である。同時に発語できない存在が躓いている「愚かな」困難をものりこえなければならない。

松下昇『概念集』の一部への感想 2

35 瞬間

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瞬間というのは、ロマン主義に必須である概念だという。歴史や幻想もそうでは、と思うと混乱するが、古典主義が均整と美、理性の勝利であるとすると、その逆を突いて転倒したいという欲望がロマン主義であるとすると理解しやすい。

さて、この文章について。

「他者への対的な感覚の生ずる最初の時間性の切断面(β)や共同の規範が個別の身体を審理~拘束する場合の時間性の方向(γ)」といった例を上げる。一目惚れという言葉がある、つまり普通に通り過ぎていた他人を過剰に意識し始める瞬間があるのだ。極端にいうとその時、空間の性質が少し交わすようにも思える。そのような力を持っている瞬間がある。

この項目は、「一九八六年三月二四日の法廷で松下が「裁判官席に向かって酒パックを投げつけた」とされる瞬間」=スキャンダルを題材にしている。
法廷は「事件の瞬間」を評価しようとする。瞬間に対し、その事前か事後にあったことを記述することができたとしても、瞬間自体を記述することは不可能であるはずだ。

 

37 年周視差

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ある「対象やテーマに関わり、もがいている過程がある場合、どこかに周期をもつかどうか追求してみる。その対象やテーマを媒介する自分の位置~感覚が、最も差異を示す〈最遠〉の二点を繰り返して通過するようであれば、〈周期〉がありうる」

 


地球とある恒星までの距離に比べると地球の公転軌道の直径は非常に短い。だから天文学に特別の興味を持つ人以外そんなことに興味は持たず後者については無視してしまう。しかしこの年周視差の方法がなければ恒星までの距離を測ることはできないのだ。
誰も気づかないような微細な差異を丁寧に取り出す、そしてそれをもとにきちんと計算することにより結論を出す。微細な差異に対して鈍感なわたしたちは、松下の文章は難解だとだけ言ってしまうが、その微細さを扱うことを、まず学んでいかなくてはならない。

ただの停滞や後退に見えるものにおいても、見ようとすれば、周期が存在するだろう。あるテーマと関わりもがく。出口がみえない状態が続くなら「どこかに周期をもつかどうか追求してみる」という発想もヒントをもたらすかもしれない。

 

38 生活手段 (職業)

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アンケートなどでも、住所、氏名の次に職業という項目があることがある。わたしたちの社会は大人ならなんらかの職についているのが当たり前とされる社会であるわけだ。
松下に対する起訴状では、国家公務員、著述業、無職……といくつもの勝手な規定が現れた。

すべてのジャンルや制度の根拠を積極的に疑いにさらす、しかも自分の生き方において、というのが松下の思想だった。そこからは、定職に就くという発想はでてこない。名前や年令や前歴を明らかにすると雇用されない現状を突破するためにも、数人のグループで任意の仕事を引き受けた場合の交換可能な構成員として参加するといった試みがなされた。「全ての職業についている人、とくに〈公務員〉は、この提起に応え、媒介となりうる度合でのみ辛うじて職場に存在する理由をもつ」と松下は言い放った。(しかしそれを実践していくのは非常に困難であり、野原が知る限りあまり実例はない。)私自身については、実は地方公務員という安定し楽な職場に40年以上勤務し続けた。この一節をまったく裏切った生き方をしてしまったということになる。

会社員とかのように自己の主体的能力と社会的地位をポジティブに引き受けるのが当然であるという存在認識。それに対して「被告人や前科者のように法的に強いられた状態および、病人や老人や死者のように存在的に強いられていく状態」に注目することは、歪みに満ちた「自己~世界の構造」をどように把握していくかという問いを追求するなかで、関係の中での役割や立場をも発見していくというプロセスだ、ということになる。組織というものがあるとしても、分担を全構成員の討論によって決定し、短期間で交代する仕組を確立するといった問題意識を持って模索すれば、職業概念の消滅というヴィジョンを描きうるだろう。国家の解体~消滅プランを考えることはそうした模索と同時に行うことになる。

「時代と偶然に強いられた生活様式~状態からの解放の試み自体を生活手段として生きる」とはどういうことだろうか?それは例えば、この概念集といったパンフを作成し、それと金銭と交換するといった生き方である。
松下の思想や活動への賛同や評価をする人が、カンパとしてお金を出すのではなく、「解放の試み自体を生活手段として生きる」ことへの共闘・巻き込まれがそこにあると理解したいというわけだ。

参考:10年前に書いた感想

666999.info

 

 

松下昇『概念集』の一部への感想 1

松下昇の後期主要著作『概念集』全14冊、全210項目はすべてPDF化されており、下記から読むことができます。
http://666999.info/matu/mokuji.php
(畏友、永里氏のサイトに掲載されたもの)
その一部は、私がテキスト化しています。
その一部について、私が引用し短いコメントをつけたものを公開します。

 

82 「裁判提訴への提起」

http://666999.info/matu/data0/gainen82.php

裁判闘争という言葉があるが、闘争というほどかっこいいものではない場合が多い。
職場のパワハラや不利益処分など、職場に労働組合がなければ職場で闘うのはなかなか大変だ。法的に訴えることができる場合は、弁護士に頼めば訴訟はすぐできる。ふつうは、勝てるのか?、弁護士費用以上のものが取れるかどうか?を考えて難しそうなら止めておくことになる。ただし、自分の正当性(相手の不当性)をどうしても広く世間に訴えたい、そのことに正義があると信じる場合は、勝てそうになくても提訴することがある。内藤さんの場合は誰からも勝てそうもないと言われたが、法制度の矛盾を明らかにするべき問題でもあったため、裁判で争うことになった。
典型例としては、「解雇処分を受けた場合(など)に地位確認の仮処分申請や解雇取消の請求を裁判所の民事部へ書面でおこなう」といった方法を取る。

左翼や市民運動家は自己の運動の正義を信じているしまた世間へのアピールという意味もあるので、裁判提訴したがるとも言える。
ただし全共闘ないし新左翼はなやかな時代の闘争参加者は「活動の全領域において裁判所を含む国家権力の介入や、それへの依拠を拒否する」という基本的な姿勢も、一方では持っていた。大学という機構に正義を期待できないなら、裁判所という機構にも正義を期待するのはおかしかろう。
松下昇は、大学を1970年懲戒免職になり、それ以後各種裁判闘争を長く続けた。だから「懲戒処分に対して取消請求の裁判提訴」をしたのだろうと思われているが、実際はしていない。裁判所で法の正しさによって救済してもらうといった方法を取らない、といった考え方だったからだ。

 


では何を獲得しようとしていたのか。多くの闘いは「勝ち目のない闘い」である。どうしても許せないという怒りによって起動されるのが闘いであり、それは予め勝敗を予想できるレベルで発想されていない。おそらくこうなるだろうという予想はいくつかの理由により容易に覆る。その程度のことも考えない賢しらぶりは最悪であろう。世界を平板に想定する人が増えると、この社会は生きづらくなる。別の思考方法が必要であろう。

 

33 「一票対〇票」

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「一九七〇年十月に大学当局は私を懲戒免職処分したと発表しているが、人間の社会的規定は重層しており、学内に限っても、私の労働組合員や生協組合員の資格は持続しているから、それらの組合員としての活動を仮装して構内立ち入り禁止等を無化していこうとした」という「立候補」行動!

 


存在規定の二重性については、離婚後にある男性が夫としては別れを告げられているが、父親としての関係は未確定であるといったようなことがある。大学当局との関係において懲戒免職の可否をあらそっている場合、組合員資格を当局の言うがままに喪失したとすることはできない(判例がある)。生協組合員の資格といったものについて日本で真剣に考察する人はいないが、労働組合と同様に考えうるだろう。それを梃子に松下は生協の総代選挙というものに立候補した。これは松下に対する構内立ち入り禁止通告に反対するパフォーマンスだった。そしてそれだけでなく、存在規定の多重性についての考察、自分を代表するのは自分しかないという原点からみた選挙や投票の意味の追求であっただろう。

 

34 「参加」

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民事訴訟法、にはこうある。
第六四条 訴訟の結果に利害関係のある第三者は、訴訟に参加できる。(本来、民事訴訟は自分でおこなうのが原則であり、だれでも利害関係を疎明すれば参加できる。)
第六五条 ③参加の申し出は、文書でなく口頭でもよく、(略)

「第七一条 訴訟の結果ないし目的自体が自分の権利を害すると主張する第三者は、当事者として訴訟に参加できる。(註 -- 第六四条~六八条が、当事者の一方への参加についてのべているのに対して、この条文は当事者の双方への異議ないし異化の作用を示唆する点が重要である。)

「私たちの経験では、法律の専門家は、殆ど前記の条文を知らないか、知っていても決して実際に応用せずに無視~抑圧する。憲法の空洞化に匹敵する、この事態に非専門家としての大衆が気付いていく契機は、情況の危機的空洞の総体を突破する作業への〈参加〉の速度と必ず対応しているはずである。

裁判所は国会、行政庁と並びわたしたちの民主主義の柱だが、後者以上に私たちから疎遠であり、また判決内容や推測される裁判官の人柄もかなり疑問を感じざるを得ない場合が多い。
しかし、判決に影響をあたえられなくとも、素人の感覚で直接裁判所に当事者として登場していくのが松下の方法だった。

「私が本来的にのべたいのは、現実の様々な場面において、意図しようとしまいと参加させられてしまっている関係的な拘束性をとらえかえし破砕していくために、法律の水準を補助線として引いてみることである。」

裁判所においては誰の発語であろうと、それは本来の意味というより裁判過程の一部である法的言語として受け取られる。それは当然ではない。
実は事件をどのような枠組みで理解しうるかは自明ではなく、法律家の思いもよらない方法で法律と現実を読むことはしばしば可能である。

「反日」をめぐって

http://kusabi.webcrow.jp/gainen/hozyuu/1.pdf#page=6
この紙片に、I.Hというペンネームの未知の方の文章が載っている。
反日」という思想についてである。
「僕は彼らの「反日思想」に共感した。中、高生ごろ僕が一人で考えていた「日本人であることの罪をぬぐうこと」を、彼らは武装闘争として実践した。自分とまるで同じようなことを考え、それを実際の戦いで示した人達が二十年前にいた。最初に彼らを知った時、あこがれ、かつ他人とは思えない親しさをおぼえたものだ。自分にもし、もう一回り強い決意性があり、彼らのような仲間がいたなら彼らと同じ道を歩んでいたのでは、と思うことがある。
 しかし、実際にはそんな決意性もなく、そんな相手もおらず、大学まで来てしまった。」
 
1974年三菱重工爆破事件などを起こした東アジア反日武装戦線などの、思想に惹かれていた自分を語っている。
日本・日本人が1945年までアジア各地に侵略し民衆を殺害・強姦した。それは歴史的事実である。しかし殺し/殺されるというのは、体験者にとっては単なる事実にはならない。それはトラウマになりそれを口にすることさえできない、触れようとすると数日間うつ状態になるなど、トラウマになる場合も多い。

反日という時、何ができるか?とI・H氏はいう。彼は自分の存在様式のキシミにおいて反日という概念をとらえているようだ。
「日本人であることの罪をぬぐうこと」自分自身の問題としてそれを担おうとして、爆弾闘争という行為を選択した先行者を見出した。彼は反日派に強いあこがれをいだく。

「日本国家に抑圧〜侵略されてきている人々の反日の感情には十分な歴史的〜現実的な根拠があり、私たちが、この根拠を全く不十分にしか止揚しえないままでいる事実」は存在する。


最近のNHKのTV番組マレー半島の山奥のゴム園で何の罪もない母子が日本兵に撃たれた(子供は生き残り番組にでている)話がでていた。日本兵は何の意味もなく殺戮したわけではない。この地域のゴム園経営者の華僑はかなりの富を持っており、それを重慶の国民党政権に送金していたのだ。収入の過半を占めるほどだった。ところがマレー半島の住民と「大東亜戦争」の関わりなど日本人は教わったこともなく、知っている人はごくわずかだ。ただ、殺された側のマレー人、シンガポール人などは必ずしも忘れてはいない。

一方、現在増えているのはネトウヨと呼ばれる人々である。自分自身の満たされない思いを韓国・中国から日本が攻撃されていることに結びつけ、被害者意識に基づいた「誤った歴史観」を作り、それを基に正しい歴史感や外交政策を攻撃する人たちである。

1970年代に現れた、東アジア反日武装戦線などの「反日派」も、シニカルに評価すれば、それの逆像のようなものだったのかもしれない。つまり、自分自身の満たされない思いを韓国・中国・アジアが日本に侵略・加害されたことに結びつけ、加害者意識を、一挙に現在の国家や大企業への全否定に結びつけ、攻撃する人たちである。

ただ、まあそう言い切ってしまうことにもためらいがある。現在の日本国家の、入管収容者や外国人技能実習制度によって入ってきている労働者への人権侵害は顕著である。ネトウヨ的誤った歴史観は日本外交をも歪めている。日本国家全体が国民全体の福祉のために動いておらず、資本家階級のために動いている。システムがそうである限り、「いい大学に入り、出て、いい会社に入る」といった生き方をすることはそのようなシステムの思想に存在論的に同意していることになる。松下昇はそう考えたであろう。

日本という国家と国民は、戦争に負け生まれ変わり、その戦争と加害の歴史に決着を付けて次の時代に進んだはずだった。しかしどうも自分たちがやった侵略の悪を直視し、反省する方向には向かえなかった。時代が経ち日本国内の人々の記憶が薄れると歴史的事実そのものを少しづつフェイクの側にずらそうとする膨大な努力が何十年も重ねられた。一定の成果だった「河野談話」を必死になって無化しようとして失敗した安倍首相は、その失敗(2015年の謝罪)を国民に隠したままである。敗北を隠すための必死の「慰安婦像叩き」という無意味なパフォーマンスはそれでも一定の成果をあげ、嫌韓派の支配はより強まっている。


松下昇は「反日」を次のように定義した。
「自己が依拠してきた発想や存在の様式を変換する契機を、日本の戦後過程における社会構造の責任との関連において、極限的に迫求する方向に見えてくるヴィジョン。」
https://noharra.hatenablog.com/entries/1100/01/23#p1
松下思想の核心である、自己の存在様式変換と革命の課題を同時に極限的に追求するというヴィジョンが、端的に述べられている。

次に松下は、「日本国家に抑圧〜侵略されてきている人々」ではない人々はどう考えたらよいか、と問いを立てる。

イスラエルに生まれ、育った人が同じような闘争への意志をもつまでの困難」という表現で、豊かでイノセントであるかのような戦後日本しか知らない人の困難に近付こうとしているのだろう。(30年経ってもイスラエルパレスチナ関係が不変であるのも不幸な話だが)

元に戻って、「日本赤軍も、東アジア反日武装戦線も、60年代末の大学闘争以降のさまざまな模索過程が生み出した形態の中の二つの極限である」と書く。
ひとはぼーっと生きているようでもさまざまにもがき悩むわけだが、おそらくそれらでさえ「自己の存在様式変換と社会変革の課題を同時に追求する」という包括的な思想空間において論じうるはずだと、松下はおそらく思っていたのだろう。

αーある声の誘いに応じて、長年にわたって手にしてきた〈網〉を拾てて、直ちに歩き出すことのできる魂の飢餓

「機構の変革のみならず、変革しようとする主体の変革を同時に展開することを不可避とする世界史的情況」が、大学闘争という時代の本質であると、再度確認される。

「人間や社会が存続する条件よりも、存続のために他を犠牲にしてきた条件の追求」を重視する。
社会変革という目的は断固追求されるべきであり同時に、目的のために自己犠牲・自己欺瞞、粛清などを生んでしまう(広義の)スターリニズムに対しても否定、批判はなされなければならない、というのが当時の新左翼の共通了解であっただろう。この革命主体に対する批判を、自己の存在様式に対する批判にまで深めるというのが松下思想であった。
わたしたちの共同体はその存続、自己利益を目的とするが、そのために何かを犠牲にしてしまうその条件、構造が研究されるべきである。

反日の概念とは無関係にみえる多くの概念」とは例えば、何を考えられるだろうか?わたしたちの社会はむしろ、会社のコストカットのために労働者の賃金を下げることが、正面から推奨されるようになってしまった。より多くの賃金のために超過労働(残業)をどんどんするといった、「目的のための行為」が結局そうした社会を作り上げたといったことも、その例だと考えることができる。

天皇制を含む日本の存在様式の解体」といったヴィジョンを持つとしても、その根拠や射程により、反日の具体的展開は様々に異なる。
2020年の現在からみれば、アイヌ:辺境の少数民族問題、や科学:核兵器原発など、に象徴される科学。自然を平板化し一面だけを取り出すことにより目的を達成する「科学的」手法への批判。武装:世界大戦だけは回避しているものの、戦争や国内弾圧をむしろ少しづつ起こしているきらいもある諸国家たちの犯罪性、自然:気候正義や人新世など世界の自然が端的に破壊されてしまう時期が来るという危機、と言って問題がある。(言語はあとまわし)
これらはすべて、日本の問題ではなく、世界の問題である。であれば、反日派は反日であるべきだったのか?という問い直しも必要だろう。ただし、私たちの正義の基準を総括するものとして日本国が存在し、その基準が狂っていると言う意味では、出発点としての反日は正しい。

「それぞれの項目が喚起するイメージが現在の人類史の具体性から発している度合を無化して把握しなおすべき、ということであろう。それぞれの項目への認識ベクトルを、概念の発生する初期条件と最終条件の包囲する座標系でとらえていく、といいかえてもよい。」と松下は注釈している。私の解釈とは反するようだが、私はこの文章が書かれてからの30年の間に生じた差異を拡大していくことで、例えば「科学が科学である自明性」にゆらぎを与えようとしているのであり、それほどズレていない。

松下は資本主義、国家、科学を批判するというインテリの道はとらない。それではインテリの自己身体(存在様式)の批判にたどりつかないから。
「社会的底辺、国際的周辺、時間的辺境という三つの〈辺〉に根拠をおきつつ」、松下は懲戒免職されいやおうなく社会的底辺に身を置くことになった。それと同じように国際的周辺、時間的辺境に自己身体を置いてみるという立場から発想してみるのが、松下の方法だった。
今日のミャンマー問題などでは、ミャンマーのしかも周辺部の少数民族の被害などもTV、netの画面などで身近に見聞することができる。国際的周辺からという視線を自分のものにするという課題も不可能ではない。孔子プラトンなどの古典も、そこに学問的権威を見るのではなく、太古の未開性といわれるもの、女系制の名残といわれるものとの葛藤としてそれを読み取っていくことができる。
「社会的底辺、国際的周辺、時間的辺境という三つの〈辺〉に根拠をおきつつ」という条件は、現在それに近づくことは困難ではないと考えたい。

註1に書かれた、三項目はとても魅力的かつ難解である。

「αーある声の誘いに応じて、長年にわたって手にしてきた〈網〉を拾てて、直ちに歩き出すことのできる魂の飢餓」
福音書で漁師が網を捨ててイエスについて行く情景を、美しくパラフレーズしている。このような一度読んだら忘れられない印象的なフレーズが松下には多い。
歩き出すといっても何処に行くのか?実際には松下は神戸大学から懲戒免職されても神大のふもとの小さな家に住み続けた。本を読み研究するといった態度を捨てるといったことが、松下本人には問われていただろう。評論文、小説などを書いて原稿料をもらうというのが、彼に可能な「かせぎ方」だったのだが、彼はそれすら拒否した。文章を売り、読者が買うという関係は、彼の意図する存在様式の変容に反する面があると彼は思ったのであろう。
さて、私にとって〈網を捨てる〉とは何か?twitterとかブログが私にとって習慣になっているなら、とりあえずそれは止めるべきだ、と松下は考えただろうか。
現在スマホを捨てることは、どんな人をも不安にさせることができる容易な手段となる。存在論的落差を思惟することができる契機をつかみそれについて思考することをやめないこと、それが大事だと松下は言っただろう。netやスマホ断ちをも含め、魂の飢餓を〈網を捨てる〉方向へ開いていくこと、そこに啓示の光を見出すことができるか?

 βー今後、何一つ〈日本〉語では表現しないで生きようとする意織

これは難しい。今後考え続けたい。

「γー〈天皇〉あるいは自分を爆破しうる武器を作りうる技術の総体」、今の時代はこのような端的な否定性を口にする人はいない。私もその勇気がない。
変革というときに、主体の暴力、加害という側面も考察しておかなければいけない。日本の戦後思想は国家暴力=軍隊の全否定からはじまり、それがすぐ骨抜きになった後も、非暴力的主体形成しか考えてこなかった。最大の例外が赤軍派東アジア反日武装戦線であった。それについて考えるとともに、次のことを考える必要がある。

2019.7月京都アニメーション放火殺人事件、2021.12月北新地ビル放火殺人事件のような、無差別テロといったものをどう捉えることができるかという問題である。

自己が依拠してきた発想や存在の様式、つまり日本社会というものとの関係が全く破綻してしまい、悪意を大量殺害という形で表現し、死刑になりたかったなどと言う。

日本国家に抑圧されている人々ではあろうが、日本国家による精神支配によって閉ざされ、階級闘争などといった敵を措定する能力を奪われ、悪意が殺意に至るまで高揚されてしまった。そうした例がいくつも出現している。
松下の〈反日〉という思考からもはみだすかもしれないこのような、存在の叫びの問題を含めて考え続けないといけない。

 

田あるによって生命育つ

『Doing 思想史』 テツオナジタというのは、変な題だし、余り読まれなかった本(2008年みすずが翻訳刊行)かもしれない気がする。
今の私の問題意識に響くものがあって、感銘を受けた。


18-19世紀の日本人の形而上感覚・気一元論が、例えば山中の芽生えのエロスを身体いっぱいに受ける体験に直接つながっている、というふうに直接的・肯定的に受け取ることができた。形而上学とエロスは直結するものではないのでそれは勘違いなのだが、かならずしも見当違いではないと思っている。
日本的無神論、自然の聖化、につながっていくかもしれない宇宙感覚という感じである。日本での自然の聖化は、国体(国家)の聖化につながっていった歴史がある。しかし、明治維新以前の安藤昌益や二宮尊徳などの思想の根っこの部分だけを取り上げるとそれとは逆に理解できるのだ。

ナジタさんの紹介によると、二宮尊徳は非常に有名だが、誤解されている。つまり、死後各方面がそれぞれ(自分が利用するために)自分勝手な尊徳像を作り上げ強調したということのようだ。 (同書のp105-121 「時代的文脈のなかで考える もうひとつの徳の諸相(報徳の思想と運動)」より)

「尊徳自身は宗教をすべて否定していて、神社なんかつくってくれるな、という話を弟子にしています p108」。にもかかわらず、「文部省が金次郎像を国中に建てて、金次郎は国家道徳を支持し、教育のあるべき姿を身をもって示した聖人であると評価することになります。」ここで尊徳に対するパプリックイメージがむりやり作られ、戦後もその虚像から離れるのは難しくなります。

さて報徳とは、「万物にはすべて良い点(徳)があり、それを活用する(報いる)」という意味らしい。
https://www.hotoku.or.jp/sontoku/
徳も報も、倫理的意味ではない。倫理的意味を脱色したプラグマティックな感じが、尊徳的ですね。
徳:「むしろ、永遠あるいは普遍的な自然という意味なのです。」人間に内在する徳とは、命、動的で活発なエネルギーが孕まれた自然そのものを意味します。すべてが生の連鎖として絡み合った自然。知識もまたこの自然にあると考えられます。

生すなわち命は、自然から人間に与えられたギフトです。
貝原益軒は、生は恩であるといいました。与えられた生という恩、それに応えるという意味での報恩。それを報徳と言い換えたのが尊徳の思想だとナジタは論じます。

自然・天の止むなき生の連鎖を助けて支えること、それが道徳。自然を理解する者ならだれにでもできる、農民なら。生きているその土地の周りを耕し、その小さな自然をいっぱいに花開かせたなら、また自分自身も生きることができるわけです。
儒教はそもそも性即理であり、自分の生は天と直結しているという思想は強い。しかし、支配階級として人民を支配するという意味での天の意識を、少しだけ変えて、農民が自然と相互作用しながら生きることに〈天は我なり、我に天あり〉という思想に変えていったのです。これはやはりひとつの革命思想と評価しうるのではないか。
東学の〈人乃天〉(人すなわち天)の思想は,「人間の平等と主体性を求める反封建的な民衆意識を反映するもの」とされるが、時代的にも共通点はあるのだと思う。https://kotobank.jp/word/%E4%BA%BA%E4%B9%83%E5%A4%A9-1399607

まず民(人民)ありと考えるのが儒教です。いわゆる民主主義的感覚も共通点はある。すべての日本人が困らなければ、他の問題が多少あっても無視してもよい。しかし人民とは?いまある学校制度や資本主義の枠内で苦しむしか能のない人たちのことであるならば、かなり限界があるだろう。

「人ありて、土あり、そして富あり」、という思想はダメだ、と尊徳は考えた。
「自然ありて民あり、民ありて労働あり、労働ありて組織あり」という順序で考えるべきだというのが尊徳の思想になる。

例えば、儒教は「孝」を大事にするが、子供があってこその孝である。現在のように資本主義的締め付けが厳しすぎて子供も生めない、そのようなことがあれば本末転倒であろう。
あるいは「フェミニスト」とはとか「自己の欲望とは」といった不可避の問い(闘い)が、自己の観念内のものしかなく、結果的に子どもなしに終わった、とか(これはデリケートな問題なのでうまく書けないが)

他者(パートナー)を含んだ、自己と労働との関係、自然との関係、その生き生きとした生成とのつながりが第一義であるはずだというわけです。
それは「天皇は民の親である、という縦の思想を否定することにつながります。P115」(ただこれが金次郎像によって裏切られたのは前述のとおり)

安藤昌益は土と向き合い仕事をする、肉体的労働を重んじて、文字や学問を否定し、儒学の文字重視は民衆を搾取するための政治的道具だときびしく批判した。P117

尊徳もまた、土との関わり(田徳、田畑の恩恵)がすべての基礎であると考えた。
「田なければすなわち生養なし。田あるによって生命育つ。田徳あるが故に君は君たり。略。田徳あるが故に自己は自己たり。略。田徳あるが故に諸芸は諸芸たり。田徳あるが故に車馬は車馬たり。」
尊徳は昌益と違い、君(支配者)を否定はしない。しかし、価値の中心は田徳であり、諸芸や車馬が田徳によってそして田徳のために肯定されるのと同じように君主も肯定されているに過ぎない。

自然もエコロジーという学説や宗教のカテゴリーにとどまる限り、観念に過ぎない。わたしも自然から生まれ自然に帰る、そのような存在の開かれをどう思想化していくか、という問いに二宮尊徳(金次郎)という人の思想がヒントになるとは、意外な驚き(喜び)だった。