松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

松下昇『概念集』の一部への感想 5

66 余事記載

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裁判所に提出した文書の中で、裁判所が考える現実の構成にとって不要である要素は、裁判所にとってどうでもよいできごとであり、審理の対象になることはない。当事者の発言の一部が審理の対象にならないのは裁判所にとって(そして同じ法的常識を共有する弁護士にとって)当然のことなのだ。

「私の提出した文書にある「~を含む仮装被告団」の表現を余事記載であるとして私に削除を要求したので拒否すると、裁判官が決定で削除したこともある。」「~を含む仮装被告団」というものが松下以外のひとり以上の特定の個人を含むものであり、その名前による文書であるなら、裁判官が勝手に削除するのは正当ではないように思われる。それとも、特定の個人(匿名であっても)が存在しないと思われたから削除されたのか、ここの文章だけではなんともいえない。

ものごとを議論する時に、権力やマスコミなどが設定した論点、キーワードに導かれた形で議論してしまうことが多い。あるいは反論するときは、護憲派的とか日共的とかのステロタイプな言説パターンをなぞるような形になってしまう。
民事裁判というのは損害賠償なりなんなり、非常に限定された獲得目標を得るためのほぼ決まった形の上で言説を交換するゲームになっている。しかし松下はそうした枠組みのなかでも、勝手に「審理や会議や発想~存在様式の変換を試みる」といった問題意識を持って主張していうことができるという方法を編み出した。当事者(提起主体)には時間や方法を選ぶある程度の自由があるのだ。獲得目標という常識的な発想にとらわれていると、そうした自由を行使せずに終わるのだが。
闘いは、存在のあり方が情況によって極限的にまで歪められた時に、悲鳴として起こされることが多い。そのような場合には、情況の歪みといったものを裁判の場になんとかして表現していこうとすることは不当ではないし、むしろやっていくべきことなのだ。

 

67 プロテスト

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「自分たちがやってきたことはプロテスト以外のなにものでもなかった。現在では、この概念は新鮮な響きを失い、かってプロテストした者たちは、要領の悪いハネ上がりとしてしか見られていないが、」
このパンフが出されたのは1991年、冷戦終結の時期だ。

かっての抵抗運動は何らかの革命を期待するものであっただろうが、そのような未来が失われるならばそれは「要領の悪いハネ上がり」と切り捨てられてしまう。
2019年-2020年香港民主化のプロテストに続き、去年2月からのミャンマーでのプロテストも終わっていくかもしれない。

「というのは、私は自分のやってきていることがプロテストであるとは一度も考えていなかったからである。むしろ、私は迫ってくる問題群を楽しく再構成する素材として歓迎してきたし、敵対するように見える関係や人々があっても、それらの関係や人々が私の扱いに堪りかねて、
もうやめてくれとプロテスト!するほどに、〈作品〉の対等の登場人物ないし作者として対処してきている。」
それに対し、松下昇は孤立しても楽しげに闘い続けることを止めなかった。それは「迫ってくる問題群を再構成する素材として作品化〜表現していく」という活動自体が闘いであったからだ。

 

188 真実と虚偽の関係  (仮装の本質について)


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「aー 被抑圧存在が抑圧してくる関係を転倒していく過程で事実と異なる発言をしても、過渡的に〈正しい〉。
bー 任意の主体が、時間・空間概念を含めて私たちの存在様式を規定してくる闇の力を対象化し転倒していく過程
で事実と異なる発言をしても過渡的に〈正しい〉。
cーーa、bいずれの場合にも、過渡性を明確に報告し検証をうける未実現の場をめざす責任があり、そのことをa、bに関わる場へ公表していく度合だけ〈正しい〉。」
これは現在国家も社会も認めていない〈正義〉を基準に行動していくという宣言である。
ただし、その〈正しさ〉を関係者すべてで検証すべき場を実現していくのだ、というその実現性の度合いだけ正しい、とされる。

例えば森友事件などの情報公開請求で、真っ黒に塗られた紙が当局からの正規の解答として返って来る時、それを「闇の力」と見るのはむしろ普通だろう。マスコミや裁判所の解答としての「正義」が正義と言えないとき、別の正義が探求されざるをえない。