松下昇『概念集』の一部への感想 1
松下昇の後期主要著作『概念集』全14冊、全210項目はすべてPDF化されており、下記から読むことができます。
http://666999.info/matu/mokuji.php
(畏友、永里氏のサイトに掲載されたもの)
その一部は、私がテキスト化しています。
その一部について、私が引用し短いコメントをつけたものを公開します。
82 「裁判提訴への提起」
http://666999.info/matu/data0/gainen82.php
裁判闘争という言葉があるが、闘争というほどかっこいいものではない場合が多い。
職場のパワハラや不利益処分など、職場に労働組合がなければ職場で闘うのはなかなか大変だ。法的に訴えることができる場合は、弁護士に頼めば訴訟はすぐできる。ふつうは、勝てるのか?、弁護士費用以上のものが取れるかどうか?を考えて難しそうなら止めておくことになる。ただし、自分の正当性(相手の不当性)をどうしても広く世間に訴えたい、そのことに正義があると信じる場合は、勝てそうになくても提訴することがある。内藤さんの場合は誰からも勝てそうもないと言われたが、法制度の矛盾を明らかにするべき問題でもあったため、裁判で争うことになった。
典型例としては、「解雇処分を受けた場合(など)に地位確認の仮処分申請や解雇取消の請求を裁判所の民事部へ書面でおこなう」といった方法を取る。
左翼や市民運動家は自己の運動の正義を信じているしまた世間へのアピールという意味もあるので、裁判提訴したがるとも言える。
ただし全共闘ないし新左翼はなやかな時代の闘争参加者は「活動の全領域において裁判所を含む国家権力の介入や、それへの依拠を拒否する」という基本的な姿勢も、一方では持っていた。大学という機構に正義を期待できないなら、裁判所という機構にも正義を期待するのはおかしかろう。
松下昇は、大学を1970年懲戒免職になり、それ以後各種裁判闘争を長く続けた。だから「懲戒処分に対して取消請求の裁判提訴」をしたのだろうと思われているが、実際はしていない。裁判所で法の正しさによって救済してもらうといった方法を取らない、といった考え方だったからだ。
では何を獲得しようとしていたのか。多くの闘いは「勝ち目のない闘い」である。どうしても許せないという怒りによって起動されるのが闘いであり、それは予め勝敗を予想できるレベルで発想されていない。おそらくこうなるだろうという予想はいくつかの理由により容易に覆る。その程度のことも考えない賢しらぶりは最悪であろう。世界を平板に想定する人が増えると、この社会は生きづらくなる。別の思考方法が必要であろう。
33 「一票対〇票」
http://666999.info/matu/data0/gainen33.php
「一九七〇年十月に大学当局は私を懲戒免職処分したと発表しているが、人間の社会的規定は重層しており、学内に限っても、私の労働組合員や生協組合員の資格は持続しているから、それらの組合員としての活動を仮装して構内立ち入り禁止等を無化していこうとした」という「立候補」行動!
存在規定の二重性については、離婚後にある男性が夫としては別れを告げられているが、父親としての関係は未確定であるといったようなことがある。大学当局との関係において懲戒免職の可否をあらそっている場合、組合員資格を当局の言うがままに喪失したとすることはできない(判例がある)。生協組合員の資格といったものについて日本で真剣に考察する人はいないが、労働組合と同様に考えうるだろう。それを梃子に松下は生協の総代選挙というものに立候補した。これは松下に対する構内立ち入り禁止通告に反対するパフォーマンスだった。そしてそれだけでなく、存在規定の多重性についての考察、自分を代表するのは自分しかないという原点からみた選挙や投票の意味の追求であっただろう。
34 「参加」
http://666999.info/matu/data0/gainen34.php
民事訴訟法、にはこうある。
第六四条 訴訟の結果に利害関係のある第三者は、訴訟に参加できる。(本来、民事訴訟は自分でおこなうのが原則であり、だれでも利害関係を疎明すれば参加できる。)
第六五条 ③参加の申し出は、文書でなく口頭でもよく、(略)
「第七一条 訴訟の結果ないし目的自体が自分の権利を害すると主張する第三者は、当事者として訴訟に参加できる。(註 -- 第六四条~六八条が、当事者の一方への参加についてのべているのに対して、この条文は当事者の双方への異議ないし異化の作用を示唆する点が重要である。)
「私たちの経験では、法律の専門家は、殆ど前記の条文を知らないか、知っていても決して実際に応用せずに無視~抑圧する。憲法の空洞化に匹敵する、この事態に非専門家としての大衆が気付いていく契機は、情況の危機的空洞の総体を突破する作業への〈参加〉の速度と必ず対応しているはずである。
裁判所は国会、行政庁と並びわたしたちの民主主義の柱だが、後者以上に私たちから疎遠であり、また判決内容や推測される裁判官の人柄もかなり疑問を感じざるを得ない場合が多い。
しかし、判決に影響をあたえられなくとも、素人の感覚で直接裁判所に当事者として登場していくのが松下の方法だった。
「私が本来的にのべたいのは、現実の様々な場面において、意図しようとしまいと参加させられてしまっている関係的な拘束性をとらえかえし破砕していくために、法律の水準を補助線として引いてみることである。」
裁判所においては誰の発語であろうと、それは本来の意味というより裁判過程の一部である法的言語として受け取られる。それは当然ではない。
実は事件をどのような枠組みで理解しうるかは自明ではなく、法律家の思いもよらない方法で法律と現実を読むことはしばしば可能である。