39 華蓋・花なきバラ
http://666999.info/matu/data0/gainen39.php
「六月四日の北京・天安門事件の際に、私は偶然に #魯迅 の「花なきバラ」を読んでいた。一九二六年三月十八日、「民国以来最も暗黒の日」にしるされた文章は、沈痛な怒りにみちているが、私たちを驚かせるのは、「…政府は衛兵をして歩兵銃と大刀とにより、国務院の門前に、外交を援助せんと徒手で請願に出むいた青年男女を包囲して虐殺させ、その数は数百人の多きに達した。しかも政令を下して、彼らを誣(し)いて『暴徒』という!(増田 渉・訳)」という事態が中国革命後に、時間を越えて一周してくることに対してである。」
(上記魯迅の文章は、手元にあった竹内好『魯迅評論集』岩波新書ではp20にある。)
1926年の三・一八事件についてはウィキペディアに記事がある。
北京政府が日本など帝国主義諸国から圧力を拒否しないことに対し、学生たちがデモを行った。武装警察軍はそれを弾圧し、数十名(魯迅は数百名と書く)が虐殺された事件。
「かくのごとき惨虐陰険なる行為」と最大限の言葉で非難した政府を倒して共産党政権が出来て約40年、今度は天安門広場に集まった学生・青年たちを軍隊が蹴散らし、やはり数百人以上の犠牲が出た。
この1989.6.4の天安門事件は30年以上経った現在でも、中国では語ることは許されていない。虐殺された若者の父母の会を支援していた劉暁波は獄中死させられた。中国大陸で唯一天安門事件追悼集会を毎年開催していた香港市民の運動は去年息の根を止められた。
六四天安門事件が30年以上、ここまで絶対的な抑圧下に置かれ続けるとは松下は考えなかっただろう。
1926年のあるひとりの死者のために魯迅は、「劉和珍君を記念する」という文章を書いていることが、ウィキペディアからは分かる。
1989年に死んだある青年に対して、劉暁波は「十七歳へ」という詩を書いているが、日本でも知る人は少ない。(参考:http://666999.info/noharra/2018/04/23/r/)
40 メニュー
http://666999.info/matu/data0/gainen40.php
ここでは、「六九年段階の神戸大学の自主講座のプログラムが、どのように具体化されていたか」を記した部分を引用しておきたい。
「(1)教養部正門を入って左手の大教室B109の黒板に、今後一週間の日付と午前・午後・夜の枠のみを記入しておき、任意の参加者が、自分の提起したいテーマを希望する時間帯に記入し、実行する。ジャンルの制限なし。
(2)B109教室は全学的な集会の場として使用するのに効果的な位置にあったので、集会を自主講座のテーマとして提起する者もあり、参加者の討論を経て了承された場合には、自主講座のプログラムに入れる。他の教室や学外での活動についても同様。
(3)一週間を経過した段階で、それまでの活動に関して総括討論を行い、これに参加したものは、学内者・学外者を間わず、次の一週間の自主講座運動の実行委員会のメンバーとなる。
このような原則に基づいて、七〇年三月の入学試験を理由とする全学ロックアウトまで約一年間にわたって、殆ど連日の自主講座が展開された。」そしてそれ以後も。
44 批評と反批評
http://666999.info/matu/data0/gainen44.php
「私たちは、この企画に限らず、あるテーマについて討論する場合、関係あるすべての当事者が、その場に可視的に存在していなくても、等距離かつ対等に参加しているという関係を踏まえて討論する。これは、大衆団交(概念集・2の項目参照)の現段階での
具体的実現の困難さの根拠を踏まえつつ、この視点の変換極限から全てのテーマを対象化しようとする方法にもとづいており、想定しうる他のどのような討論の場に比べても自由かつ解放的である。」
例えば、従軍慰安婦について論じる場合、それを論じる常識的な前提から出発することはあまり意味がない。
そうではなく、元従軍慰安婦が参加したら何を言うか(その実例はあるので参考にすることはできる)、出来事から70年以上が経過していることの意味、また無学な植民地出身の女性が相手を訴えることができるまでの落差、また慰安婦生活のなかであるいはその直後死んでしまった人の言葉は聞き得ないという問題など多くの困難を乗り越えて、当時の当事者が実際に参加しており、等距離かつ対等に発言しうるとすればとして、その想定された発言を基に議論していくというのは、聞き慣れない方法論かもしれないが意味があると考える。ネトウヨは予め「否認したい」という欲望を隠さずそれを達成するためにエビデンスを出せないだろうという論法で迫ってくるが、彼らの前提と論法の両方を一旦無化した後でないとまともな議論にはならない。
わたしたちは元従軍慰安婦の原像を求めようとする。また従軍慰安婦を抱いた側の兵士の当時の存在性も、呼び起こした上で議論する方がより誠実であろう。論じている私たち自身が「売春」概念、あるいは侵略戦争概念に何らかの意味でとらわれていることを解きほぐしていく作業になるであろう。ただし現在は、平板などっちもどっちに陥ることを最も警戒しなければならない。
従軍慰安婦は当時年少で無学で、異国で孤立していた。被害者の苦悩や沈黙に近づくためには「表現意識の最高度の達成」(文学)が必要である。同時に発語できない存在が躓いている「愚かな」困難をものりこえなければならない。