松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

松下昇『概念集』の一部への感想 2

35 瞬間

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瞬間というのは、ロマン主義に必須である概念だという。歴史や幻想もそうでは、と思うと混乱するが、古典主義が均整と美、理性の勝利であるとすると、その逆を突いて転倒したいという欲望がロマン主義であるとすると理解しやすい。

さて、この文章について。

「他者への対的な感覚の生ずる最初の時間性の切断面(β)や共同の規範が個別の身体を審理~拘束する場合の時間性の方向(γ)」といった例を上げる。一目惚れという言葉がある、つまり普通に通り過ぎていた他人を過剰に意識し始める瞬間があるのだ。極端にいうとその時、空間の性質が少し交わすようにも思える。そのような力を持っている瞬間がある。

この項目は、「一九八六年三月二四日の法廷で松下が「裁判官席に向かって酒パックを投げつけた」とされる瞬間」=スキャンダルを題材にしている。
法廷は「事件の瞬間」を評価しようとする。瞬間に対し、その事前か事後にあったことを記述することができたとしても、瞬間自体を記述することは不可能であるはずだ。

 

37 年周視差

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ある「対象やテーマに関わり、もがいている過程がある場合、どこかに周期をもつかどうか追求してみる。その対象やテーマを媒介する自分の位置~感覚が、最も差異を示す〈最遠〉の二点を繰り返して通過するようであれば、〈周期〉がありうる」

 


地球とある恒星までの距離に比べると地球の公転軌道の直径は非常に短い。だから天文学に特別の興味を持つ人以外そんなことに興味は持たず後者については無視してしまう。しかしこの年周視差の方法がなければ恒星までの距離を測ることはできないのだ。
誰も気づかないような微細な差異を丁寧に取り出す、そしてそれをもとにきちんと計算することにより結論を出す。微細な差異に対して鈍感なわたしたちは、松下の文章は難解だとだけ言ってしまうが、その微細さを扱うことを、まず学んでいかなくてはならない。

ただの停滞や後退に見えるものにおいても、見ようとすれば、周期が存在するだろう。あるテーマと関わりもがく。出口がみえない状態が続くなら「どこかに周期をもつかどうか追求してみる」という発想もヒントをもたらすかもしれない。

 

38 生活手段 (職業)

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アンケートなどでも、住所、氏名の次に職業という項目があることがある。わたしたちの社会は大人ならなんらかの職についているのが当たり前とされる社会であるわけだ。
松下に対する起訴状では、国家公務員、著述業、無職……といくつもの勝手な規定が現れた。

すべてのジャンルや制度の根拠を積極的に疑いにさらす、しかも自分の生き方において、というのが松下の思想だった。そこからは、定職に就くという発想はでてこない。名前や年令や前歴を明らかにすると雇用されない現状を突破するためにも、数人のグループで任意の仕事を引き受けた場合の交換可能な構成員として参加するといった試みがなされた。「全ての職業についている人、とくに〈公務員〉は、この提起に応え、媒介となりうる度合でのみ辛うじて職場に存在する理由をもつ」と松下は言い放った。(しかしそれを実践していくのは非常に困難であり、野原が知る限りあまり実例はない。)私自身については、実は地方公務員という安定し楽な職場に40年以上勤務し続けた。この一節をまったく裏切った生き方をしてしまったということになる。

会社員とかのように自己の主体的能力と社会的地位をポジティブに引き受けるのが当然であるという存在認識。それに対して「被告人や前科者のように法的に強いられた状態および、病人や老人や死者のように存在的に強いられていく状態」に注目することは、歪みに満ちた「自己~世界の構造」をどように把握していくかという問いを追求するなかで、関係の中での役割や立場をも発見していくというプロセスだ、ということになる。組織というものがあるとしても、分担を全構成員の討論によって決定し、短期間で交代する仕組を確立するといった問題意識を持って模索すれば、職業概念の消滅というヴィジョンを描きうるだろう。国家の解体~消滅プランを考えることはそうした模索と同時に行うことになる。

「時代と偶然に強いられた生活様式~状態からの解放の試み自体を生活手段として生きる」とはどういうことだろうか?それは例えば、この概念集といったパンフを作成し、それと金銭と交換するといった生き方である。
松下の思想や活動への賛同や評価をする人が、カンパとしてお金を出すのではなく、「解放の試み自体を生活手段として生きる」ことへの共闘・巻き込まれがそこにあると理解したいというわけだ。

参考:10年前に書いた感想

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