松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

疎外においてマルクスとフロイトを結びつけた

ウォーラーステインは最年長者の立場から、ファノン思想から引き継ぐべき遺産を明快に二点示した。一点は、「黒い皮膚・白い仮面」の功績である。マルクスフロイトを結びつけた点、とりわけalienation(疎外)の概念において結びつけた点を大きく評価した。二点目は、ファノンが左翼運動の欠点を見抜いていたという点。独立後、政権奪取後に訪れる権力と政党をめぐる問題をファノンは早くも見抜いていたとウォーラーステインは強調した。左派政権の独裁化の問題である。しかし、同時に、ウォーラーステインは「地に呪われたる者」には限界があると指摘し、自分が関心をもつのは「黒い皮膚・白い仮面」の方だとも述べた。「地に呪われたる者」や「アルジェリア革命第5年」が、民衆蜂起の文脈で今日読み返されることに対しては、距離をとる姿勢を示していた。その点でブザンスノとは見解が分かれていたといえるだろう。
http://mangrove-manglier.blogspot.com/2011/03/blog-post_25.html

なるほど。

武器を用意しなければならない

・「すべての問いに対するファノンの答えとは、絶対的価値はないというものである」(p.104)。「ファノンは道徳的な相対主義の信条を奉じている」。相対主義や文脈主義への傾斜が、西洋的な普遍の一切を拒否する。そのためには、被支配者は武器を用意しなければならない。だが「植民地主義によって使用された手段(=武器:引用者)をこれほど一貫して再使用することは、その目的を共有する危険があるのではないだろうか。」
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/tep002.html

何かに心から反対することはその何かに似てきてしまう危険性を冒すことである。
ヘイトスピーチに反対する会の愚かさは、在特会などという馬鹿をタイトルに選んだ時点で決定されていた。(7/13)



白人を中心に築かれ、統治されてきた植民地社会において、黒人はつねに己の存在に劣等感を抱いて生きる宿命を担う。その結果、黒人は自らのアイデンティティから逃避しようと試みるのだ。

白人になりたいと思いなってしまった

この逃避劇は、まず「言葉」にあらわれる。白人社会への同化意識を抱く黒人たちは、クレオール語を捨て、フランス語の「r」発音を会得しようとする。続いて、ヨーロッパ社会のマナーや生活様式を学び、白人の交際相手を探すようになる。アフリカやカリブの習俗が恥ずべきものだと信じこまされてきた黒人たちは、そんな劣等感から自分を解き放つために、必然的に「白人」になる道を選ぶのだとファノンは主張する。
http://www.logico-philosophicus.net/gpmap/books/FanonFrantz001.htm

日本人は白人になりたいと思いなってしまった、と言える。

天皇制はヨーロッパ的近代化の所産

天皇神話のイデオロギー化と、「内なるアジア」の喪失とは、実は日本における「ヨーロッパ的近代化」の所産として、明治以来進行してきたものだからである。
p358 加々美光行『逆説としての中国革命』

明治維新の精神の挫折を明治20年代のはじめとするのは、(略)、以後数年にして明治大帝・睦仁をカリスマとする天皇制と、朝鮮進出、第一次産業革命の政府の手によってする施行によって自己形成の緒を得た日本ブルジョアジー独裁制との抱合・共存が成ったとみとめるからである。(したがって、ブルジョア独裁反対が即ち天皇制反対にならぬとする三十二年テーゼは誤りである。)*1
p10 村上一郎明治維新の精神過程』春秋社

1889年(明治22年)の明治憲法が日本の近代化の大きなメルクマールであることは常識。しかし、1890年(明治23年)の教育勅語については、文明開化というものに全く逆行するトンデモないものという理解が、反君が代派などにおいては一般的なように思うが、少し考えれば分かるようにそれは間違いと言わざるを得ない。


この問題は難しいので再度展開する。(7/13記)

*1:当時においてブルジョア反対と天皇制反対はほぼ同じ意味になる、と村上は考える。