松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

私たちは求める! 私たちの精神的な支えを。

上に書いた吉本隆明水無田気流の文脈、『無』というわたしたちの無意識という文脈において、呼び出されるかもしれない妖怪とは何か。
水無田気流はいわば超人的緊張感において、『無自体としての無』といったものを詩として定着させている。無意味といってはいけないわけで、何か分からないが、興味深く貴重なものだと思う。しかし無自体としての無といったものを支えられるのは水無田さんなどごく一部の人に限られるわけで、普通の人はみななにか尊いものとかよりどころになるもの、端的に天皇的なものに引きつけられていくしかないという危機感を私は感じたわけです、吉本の敗北の自覚から。
無に耐えられない凡庸な精神が何を言い始めるかというと、次のようなことです。

(略)
彼の主張は、それを省いて、こうである、すなわち、天皇制は私たちの国の中心であり、精神的な支えであり、それは制度化されてもいるが、制度以外の様々な姿でもある、しかも、このことは明治以来のことである。

 更に、こうも言う、天皇制に対する反対は、近代天皇制の政治的意義を知った上での反対ではない、と。それは、だから、無知や無関心によるものである。そして、この無知や無関心による天皇制へのしっかりした理解が持てないでいることが、「サブカルチャー化」である、と。そうして、この状況に対応して、天皇制を支える基盤を作り出さねばならない、という必要性を東は指摘する。それは天皇制が、私たちの国の中心、精神的な支えであるからには、そうしたものとして、天皇制を機能させねばならないからである。
http://d.hatena.ne.jp/kenkido/20080206

彼とは東浩紀氏のこと。
論座三月号で東浩紀・森暢平対談というのがあったらしく、それに対する批判的な感想が研幾堂さんによってていねいに展開されている。「天皇制国家の話 十ニ 論座の対談記事から」という題の文章において。その文章を一部引用させてもらった。
研幾堂さんの主張をきちんと理解したというつもりはないが、彼の今回の文章にはまったく違和感がなく感心して読ませてもらいました。
(2/7記す)