松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

右翼とは

中島氏は「右翼とは基本的に一君万民の思想だと思う」と言っている。それは違うだろう。明治以降のことしか見ていない。日本や伝統を大事にすることができなければ右翼ではなかろう。奈良、平安、中世、江戸、明治の各時代をむりやり天皇中心主義にもっていくのではなく、きれいに包括しうる思想を提出しなければ右翼ではない。左翼には曲がりなりにもできたことなのだから。

「失われた美しい過去や母なるものへの回帰が、広い意味での右翼の定義だと思います。」と片山は語るがこれも、西欧近代の常識から一歩もでていない。天皇=母なるものとして、弱者としての自分を包んでくれるものと定義づける。そもそも近代国家は半面においてそういうものだったのであって、それだけでは、何も語ったことにはならない。語ったことにはなると思うのは、丸山主義的錯覚である。

中島の「左派には普遍的な展望を考える理性への信頼がある。」というのも、ベンヤミン全共闘のラディカリズムを無視した暴論。社民=EU官僚だけが左翼ではない。
「日本がアジアとどうつながって生き残るか」を問われる時代になった、という時代認識はこれからどんどん広く共有されていくでしょう。期待される論客である彼らにはもっとしっかりしてもらいたいものです。


猫猫先生の片山評。

「反近代」というなら、後継者を確保するために皇室は一夫多妻制に戻せ、憲法から削除して自然的超越的存在に戻せと言うのが本物の右翼だろう。結局、右翼研究はしていても、自分自身のスタンスがよく分からないのが片山杜秀である。
http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20080201

なかなか良い。
天皇憲法から削除して自然的超越的存在に戻せ、には賛成。天皇は国家からの自由を保持する権利がある。天皇憲法と分離して思考し得ないことを当然とする思想は間違いだ。