松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

いまの若い人たちの詩は『無』だ

ジュンク堂大阪(堂島)に行ってきた。
子安先生の講演会を予約した。(お金(500円)は当日で良いと。)
http://d.hatena.ne.jp/kuronekobousyu/20080111/p1
田崎英明『無能な者たちの共同体』買った。

で話は変わるが、
吉本隆明氏の新刊『日本語のゆくえ』ISBN:9784334975326が出てたのでちょっとだけ立ち読みしてみた。

いまの若い人たちの詩は『無』だ

「いまの若い人たちの詩」を読む。そこで現代に感じたものは"塗りつぶされたような「無」"と"わからなさ"であった。
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AE%E3%82%86%E3%81%8F%E3%81%88-%E5%90%89%E6%9C%AC-%E9%9A%86%E6%98%8E/dp/4334975321

帯に上のような「無」という言葉が踊っている。これだけ読むと、もうろくした爺が現在を理解しえずに云々と受け止められるでしょうが、引用されている詩をよむと、そこには確かに美も真実も無常もなく、「ないこと」への意志だけが伺われるといった感じがしました。

サンプル。水無田気流(ミナシタ・キリウ)さんの場合。
http://www17t.sakura.ne.jp/~intermezzo/merry-go-round.html
悪くないと思います。でもまあ「無」ですね。無を作るために(さりげないふりをして)努力している。

で、まあここから強引なわたしの思いなのですが、これは吉本「大衆の原像」思想の敗北なのではないか。大衆の原像が、啓蒙思想の注入から自由になり自己の欲望と生活に立ちきることにより、そこにおのずから(既に実現している)革命の萌芽が生まれているはずだ、というのが吉本思想だった。若い世代の詩人たちも彼らなりに、啓蒙思想の注入だけでなくほかのすべてからの自由をも模索し実現に向かっている。しかしそこには革命の萌芽みたいなものは何も生まれず、無、清潔な不毛みたいなものが観察できるだけだと。

ポスト・パンクロック世代
ポスト・サッチャリズム期育ちのメリーさんは
今日もお家に帰ってこない
http://www17t.sakura.ne.jp/~intermezzo/merry-go-round.html

不可避としてわたしが帰宅するとき、わたしの手に握られているものは何か?