松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

見知らぬ人びとが火を囲んで集う

暗闇を数歩あゆめば、見知らぬ人びとが火を囲んで集うさまが見えるだろう。近づいて耳を傾けたまえ。彼らは、君たちの商社を、商社を守る傭兵を、どう処分すべきかと議論している。たぶん彼らは君たちの姿を目に止めよう。だが声を低めもせずに、彼ら同士の話をつづけるだろう。この無関心さが心に突きささる。

フランツ・ファノンを西欧に紹介したサルトルの「序文」の一節である。*1
世界は5億の「人間」と15億の原住民からなっていた。前者は言葉(言霊、ヴェルブ)を操る能力を持ち、後者はその能力に劣るものだ。というような文章からこの序文は始まる。マルクスが発見したブルジョアプロレタリアートの対立のさらにその外側に、今までまともに認識対象になっていなかった「15億の原住民」というものが存在する事をサルトルは、驚きをもって気づくのだ。


見知らぬ人々=彼ら=原住民=黒人であり、君たち=植民者=白人(=私たち)という構図になっている。

彼らの父親たちは、影の人間であり、君たちの被造物であり、死せる魂であった。君たちは光を分け与えてやった。彼らは君たちに向かってしか語らなかった。

原住民というものは存在していなかったわけではないが、言葉で自己主張できる存在ではなかった。白人が苦労して言葉を教え込み、彼らは辛うじて何か発言できるようになってきた。まあそういうことだ、と白人は思っていた。
 ところがファノンが出てきて世界は変わった。見知らぬ人びとが火を囲んで集っている。火(価値の中心)は常に西欧から来ると信じられていたがここではそれが否定され、彼らは彼ら自身の火を持っている。それだけでなく彼らは君たちの姿を目にしながら、無視する。いままでは、白人が原住民がいても無視する、という構図が支配してきたのに、その構図は逆転した。
世界がひっくりかえるとはこのことである。それを告げたのがフランツ・ファノン


アルジェリア革命の代弁者ともみなされたファノンがこの本を書いて丁度50年。*2 上に示した〈火〉(原住民の独自の価値)は、陽炎のように大きくなったり小さくなったりしながらしかし、実際にヨーロッパと対等に対峙するまでに大きなものに成長することはないまま50年が経過した。

ひとつの橋の建設がもしそこに働く人びとの意識を豊かにしないものならば、橋は建設されぬがよい。市民は従前どおり、泳ぐか渡し船に乗るかして、川を渡っていればよい。橋は、空から降って湧くものであってはならない、社会の全景(パノラマ)にデウス・エクス・マキーナ【救いの神】によって押し付けられるものであってはならない。そうではなくて、市民の筋肉と頭脳とから生まれるべきものだ。……市民は橋をわがものにせねばならない。このときはじめて、いっさいが可能となるのである。ファノン *3


この文章は、原発と節電を考える上でも示唆的だろう。
ひとつの原発の建設において、そこに働き生きる人びとの意識を豊かにするかどうか問われた事はなかった*4原発はまさに空から降って湧いたものとして過疎地に設置され、一方都会に住む我々はその電力を消費しただけだった。そこで行われたのは、〈そこに働く人びとの意識を豊かにする〉ことの真逆であった。
電気のために原発再開するという発想をしてはいけない。50年も経ち私の人生はすでに原発ずぶずぶだという人もいるだろう。それでもなお、人は変わりうる。そう考えるべきだろう。
何もかもなくした黒人がなおも、私は闘えると考えたように。(7/9up)

*1:p12「地に呪われたる者」みすず

*2:原著の出版は1961年、同じころ彼は病死する。

*3:p342 同書

*4:それを自らに問い拒否していったいくつかの地方はあったが。