松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

従軍慰安婦・・・と倫理

えーと、今日は沖縄問題についての社会学者の集まり(学会というのですか)*1
があったので、観客として行ってみた。
県外移設論を黙ってスルーするといった本土左翼の身振りに、本土が基地を沖縄に押し付けているというポジショナリに対する無自覚が現れている、といった議論。まあ分からないことはないが、どうもスッキリしない。
本土から今辺野古とかに行ってる活動家はみな、沖縄と本土の基地格差といった問題に自覚的だから、沖縄まで行っている、だろう。安保反対という問題を目標にすると基地格差(つまりはポジショナリティ)といった問題を問わなくても良くなる、というのは机上の空論ではないか。


さて、最後に、高橋哲也先生に対して、質問をしてみた。要領を得ない質問だったような気もする。
慰安婦と倫理について。従軍慰安婦問題について、この間、21年前に無理やり作ったパチもんの落とし穴(吉田青治問題)を一点突破で、恥も外聞もなく拡大し続けて、とうとう国民の半分くらいまで信じさせるのに成功しつつある。その原因がどこにあるのかについた、私は慰安婦問題を倫理の問題だとむしろ答えたのではないか、倫理の問題といえば相手はそれをひどく浅く曲解し、ヒステリックに反発してくる。つまり最初の倫理の問題だという答え方はまずかったのではないか? (と言いたかった。)


私は今まで10年間曲りなりに、ネトウヨと「対話」してきた。そのなかでネトウヨに倫理を求めることなど全く愚かなことだというのは学んだ。河野談話などが踏まえている最低限の事実、それを相手に確認してもらうことが獲得目標であり、事実確認だけなら、認めないまでも相手を追い込むことはできた。
高橋氏は「倫理の問題だ」という捉え方が間違いとはいえない、と言われた。まあこれは、『戦後責任論』など加藤との論争でも散々言われていたことである。


戦後69年間、政治のステージで負け続けてきた論点を、いままた、倫理の問題として持ちだされても、倫理的にだけ考えて仮に納得したとしても、政治的行動としてどうなのか、激しく疑問だといったところだろうか。
少数派の運動に意味がないといっているのではない。日の丸君が代問題で追い詰められた教師たちの闘いに対して、なんとか支援していくべきだ。その論理としては、思想の強制に反対する、である。日の丸が持つ思想性に反対することはしない。ここで私は日の丸に反対だが、国旗として法的にも定められ一応の定着をみているので、そこでは争わないとする。


高橋氏は、象徴天皇制を変えていくべきだという意見である。それは良いし、廃止を叫ぶことで自分がある原理に近づくことができるかのような短絡的高揚もないようなので結構だと思う。
「日の丸、君が代象徴天皇制は、戦前の植民地支配の歴史を想起させるだけでなく、戦後の「国民国家」日本による差別の象徴でもある。*2」 これはまったく賛成できない。
部落差別、在日朝鮮人差別は憲法天皇条項と関係ないと考える。「差別」という言葉を万能的に使いまわす習慣を反省しなければいけない。


「日本的「共同性」は日本国憲法第1条の象徴天皇制によって法的に担保されている。この点を変えない限り、日本社会に真の「公共性」を実現することはできないだろう。」*3
長く続いた戦後において「真の公共性」を求めることは愚か、だったのかもしれない。しかし、「この点を変えない限り」と言ってみても始まらない。
私たち数人でどうした共同性を形作ることができるか、そしてまた国民大衆にどうした論理である命題を納得してもらうことができるのか、試行し続けるのが出来ることであろう。
「この点を変えない限り、・・・できない」というのは、政治的メッセージとしては無責任だと思う。


さて、問題は倫理性である。倫理というのは個人的なものである。一般的、国民的レベルで語られてもピンとこない。

(以上、まとまらないが書いてみた。)

*1:14:30〜 テーマ部会?(社会学部棟3F 社301教室)沖縄をめぐるポリティクスと植民地主義http://han.org/blog2/2014/08/30.html

*2:p275 『戦後責任論』

*3:p280 最後の行 『戦後責任論』