松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

沖縄反戦観光

つぶやき

さて、反戦・観光について書きたいと思ったのだ。
反戦を観光する行為、は良くないことのように思われている。一方、沖縄とかで戦跡をめぐり平和への誓いを新たにする事は良いことのようだ。
一方が現在、他方が過去であるだけで反戦思想に違いはないようにも思える。違いは参加者の意識のあり方にある。観光客は客という言葉が示すように、決して主体になることはない。一方、反戦行動(正確には辺野古新基地建設反対の運動であり、反戦思想以外の、自然保護思想や沖縄独立思想その他の人も多い。これは大きな問題だがここでは論じない。)に参加することは、行動の主催者の思想に類似の思想を持ち同じ場で行動することだ。
レーニン主義琉球解放の赤旗のもとに結集せよ!」なんて言う人も現在まだいたが少数派、でも運動の論理は党派の論理〜同一性の論理に近づきやすい。闘いの論理が一つしかない時、たくさん闘った人の方に近づくべきとする倫理が成立する。その場合、当然反戦を観光するあり方は否定される。
命がけで闘っている人に対しては礼節ある対応をすべきだろう。しかし、「命がけで」という修辞が正しいかどうか。高江で会った石原さんは生活あっての闘いと言っていた。それでも生活がそのまま闘いでもあるような生き方に対して、観光者はあくまでパートタイムの「闘争」だ。
パートタイムの闘争、なんてものがありうるのか、偽物でしかないと言われるだろう。しかし闘争概念を支えるべきマルクス・レーニン主義や党派はすでに崩壊している、闘争とは何かそれを知らないのにパートタイムだけを批判するのはおかしい。
人はたった24時間においても様々なアスペクトを生きそれらを自己が統覚しているわけでもない。闘争も仕事と同じように身体に無理を強いているわけだが、最終的な一点においては一致が幻視される。そうでなければ「命がけ」など達成されない。
私がしたいことは、生きること。深夜に子犬を散歩に連れて行く自由。過激と言われるかもしれない闘争に参加する自由。
万一逮捕される危険性はあるかもしれない、だから私にとって正しい行為である、という面がなければ、行為できない。それはそうなのだが、一方私にとって人生を掛けた行為でもないのだ。(こういうことを書くと怒られるでしょうが、)行きずりの不倫であってもなおそこにはある全体性の感受がある、それと同じように全体性の感受がありつつもなお、予定と結果としてはパートタイムであるということ・・・だ。

ちょっと

どうかなと考えたので本文削除しました。
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