松下昇への接近

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鄭義の「二つの文革」論(その2)

 上の文章は、誰も知らない雑誌に載ったほぼ入手不可能なエッセイを私がまとめたもの。これは以下で紹介している『中国の地の底で』より20年以上後に書かれたものだろう。
 次に記すのは、東京大学出版会から去年出た教科書「中国語圏文学史」の一節。学界の第一人者藤井省三氏によるもので、権威はあろうかと思い、対比的な意味で紹介しておきます。内容はほとんど同じとも言えます。しかし、藤井先生の方が格段に読みやすい。

タイトルは「文化大革命による文学の死 -- 鄭義の「二つの文革」論」*1

 一九六六年、「資本主義の道を歩む党内実権派」打倒を掲げた文化大革命が始まる。劉少奇国家主席を頂点とする実権派に対して、毛沢東が奪権闘争に乗り出したのだ。文革発動に際し、毛は林彪(国防相)=解放軍を後ろ盾として実権派を牽制する一方、神格化された自らの権威を存分に利用して、中学・高校・大学の青少年を扇動、紅衛兵運動を組織させ社会的混乱を引き起こして実権派の統治機能を麻痺させるという戦略をとった。

 藤井は明快に解説するが、当時文革の動乱に巻き込まれまた場合によっては「自発的」、かつ積極的に参加していった学生、労働者などには、そうした裏の事情は全く分かっていなかっただろう。*2また、なんらかの形で、中国の巨大な革命に自らの夢を投影していた多くの日本の左翼にとっても、思いも及ばないことだった。*3

鄭義の自伝的現代中国史『中国の地の底で』(原題:『歴史的一部分』、一九九
三)は、文革の中に支配者の権カ闘争と被支配者の共産党支配への抵抗という二つの相反する現象を見いだしている。


 六六年五月の毛の呼びかけ(五・一六通知)に真っ先に応えて立ち上がった第一期紅衛兵たちは、党内の政治状況に通じた高級幹部の子弟たちであった。彼らは学校当局から一般学生、さらには市民にまで暴行を働き、北京をはじめ大都市をたちまち赤色テロで覆い尽くした。しかし毛が打倒対象としていたのは、ほかならぬ第一期紅衛兵の父母=高級幹部層であった。一〇月になると毛は闘争方針の大転換を宣告、知識分子、青年学生および
一般大衆への迫害を「ブルジョア反動路線」と批判し、闘争の矛先を党内走資派へ向けるよう求めたのである。


「前段階の運動でひどい迫害を受けた人々にとっては、まさに解放の福音であった」と鄭義は述べている。これに建国以来一七年の共産党の腐敗、無能そして人民に対する搾取圧迫への怒りが加わり、民衆や鄭義ら一般学生
は第二の文革に立ち上がり、新たな紅衛兵組織、造反組織を造ったのである。それは「合法的な条件を利用し、封建的な特権と政治的圧迫に反抗すること……【二つの文革】は互いに利用しあうと同時に、衝突しあう」ものであった、と鄭義は指摘している。


 やがて民衆が毛の「コントロールから抜け出して独立した政治傾向を見せるや、毛は躊躇せずに決然と鎮圧」する。毛は軍隊を投入して、全国の造反派組織、特に労働者組織の指導者を逮捕して銃殺、これと同時に武器を取り上げて、全ての大衆組織にに解散するよう命じた。さらに第一・二期紅衛兵ともに解散を命じ、全国の一七〇〇万の中学・高校生を下方(シーファン、かほう、党幹部・学生が農村や工場に入り農民・労働者への奉仕の精神を養うための運動)と称して都市から追放した。(略)
幾多の事件を経たのち、一九七六年九月毛が死去し一〇月毛夫人の江青ら四人組が逮捕されて一〇年の長きにおよぶ文革も終息するのであった。


 もっとも鄭義は「人民大衆が真に造反の大旗を立てたのは一九六六年一〇月以降で、六八年上半期には労働者組織鎮圧が始まり、六八年八月には学生組織が解散させられ、大旗は地に落ちた……その後のあの長い八年間は、毛沢東文革のブレーキのきかぬ慣性運動に過ぎない」と「一〇年の文革」という言い方に対して強い留保をつけてもいる。*4

 一〇年の文革、とひとは言う。一見自発的な盛り上がりに見えるが、実は上からの策動に乗せられてしまったにすぎない毛沢東文革(その中でも分派や内ゲバがあったが)と異質な、真の造反派と言いうるような運動はわずか一年と少し存在したにすぎず、すぐに壊滅的なまでに抑圧された、ということのようだ。
(7月9日記)

*1:同書p119-120

*2:積極的に参加した庶民の例の紹介として、廖亦武の文章がある。http://d.hatena.ne.jp/noharra/20091219#p2 

*3:『逆説としての中国革命』の加々美光行氏が最も強く夢を見ようとし、最も深く傷ついたにも関わらず、最後まで夢のかけらにすがりつこうとした人たちのうちの一人であることは確かだろう。(私の同世代にも毛沢東派は沢山いたが、私はほとんど関心を持たずに過ごした。)そこに誤りがあったとしても、その軌跡を誠実に書き残せばそこから学べるものは多い。

*4:同書 p119-120