松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

広義の日本人こそが、皇国に反逆した(3)

総題「広義の日本人こそが、皇国に反逆した」 対finalventシリーズは、いまのところ5つか。http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20090418/1240012166 批判


http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090418#p1
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090418#p2
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090418#p3
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090422#p1
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090422#p2
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20090418/1240012166 批判

番外:http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090423#p2

finalvent氏の発言は、(無意識のうちに)自分の問題意識でもって、氏に好意をもって読み込まない限り意味不明の連鎖でしかない。
(一般的に侵略といわれるところの)、近代化という意味での日本を原点とする浸潤的な、滑らかな動きがある。というのがfinalvent氏の発言の核心だと考えていいだろう。
その総体を、「浸潤的な、滑らかな動き」とよぶためにはさほど苦労はいらないのであって、近代化あるいは資本主義化とよべばよい。ただfinalvent氏は、大日本主義者なので、「日本を原点とする」と付け加える。でもって「日本を原点とする」ためには差異を捏造しなければならない。日本人はエディプス期を持っていないとかいうラカンを引いたりしつつ粗雑な「文明の対立」図式を立てようとする。
やれやれ、と言い捨てるしかない。

さて最初の論点は、
☆1 finalvent氏は、植民地支配の不当性を認めようとしない。

植民地にされたエリア(いまだ国家をもてないもの)が、圧倒的に理不尽な抑圧を受けたのは事実。(野原)

 二項の国家を措定して一方から「圧倒的に理不尽な抑圧を受けた」とし、しかもそれをガザになぞらえるnoharraさんの思考法こそ、「グレーなものを二項対立図式に還元」している、そのものではないですか。(finalvent

ふたつの国家ではなく一方の国家しか措定されないこと、それが植民地支配の不当性である。
植民地主義(しょくみんちしゅぎ)とは、国家主権を国境外の領域や人々に対して拡大する政策活動と、それを正当化して推し進める思考体系を指す。」とwikipadiaにあるとおりだ。
植民地にされたエリア(いまだ国家をもてないもの)が、圧倒的に理不尽な抑圧を受けたという事実自体をfinalvent氏は認めない。野原が(いまだ国家をもてないもの)の話をしているのに、「二項の国家を措定して」と切り返してくる。

 それが「植民地」という臨界をもてないがゆえに、滑らかな浸潤がある。そしてそれは支配しようとした国家の主体とされる内側にすら滑らかに浸潤していく。

植民地の存在について話しているのに、「「植民地」という臨界をもてないがゆえに」と返してくる。
「だから、私は帝国主義という概念を解体する歴史を考察している。」と言われるが、やっていることは問題を見まいして顔を砂に突っ込んでいる駝鳥だ。

近代化のなめらかな現象と実存的意味

http://b.hatena.ne.jp/morimori_68/20090422#bookmark-13094904
http://d.hatena.ne.jp/morimori_68/20031202 という記事(6年前のfinalvent氏とmorimori_68氏との応答)を教えてもらった。とても興味深かった。morimori_68さんありがとう。

しかし、率直に言えば、morimori_68さんは私を大月隆寛のような小熊英二の対立者だと思いこんでいるのではないでしょうか。あるいは、小林よしのりのような民族主義者だと。私の実生活についてはここに書きませんが、私にはこの問題を必然の課題とする実存的な意味があるのです。私の思想は私が生きるために必要になって生み出されたものです。私の存在はこの問題の渦中に投げ出されています。具体的な思想としては、私は、近代化とアジアという問題に絞って、私は国家の対立ではなく、近代化のなめらかな現象という視点を打ち出しました。十分な視点ではありませんが、原理的には小熊が立脚する日本国家の視点が日本の戦後で終わるのに対して、私の視点は現代にまで届きます(中国がチベットを侵略することまで包括します)。この元になる国家論と近代史の問題にmorimori_68さんはどうお考えなのでしょうか。
finalvent 2003/12/03 17:28)
http://d.hatena.ne.jp/morimori_68/20031202

ただこの文章では、finalvent氏はことば通り「率直に」語っているようだ。彼が発見し提出しようとしているテーマは「近代化とアジアという問題に絞って、私は国家の対立ではなく、近代化のなめらかな現象という視点を打ち出」そうとしているのだと。
うん。
考えてみると、沖縄/日本であれ、朝鮮/日本であれ、第三者はそこに被支配/支配という関係を見るが、関係の中で生きる庶民としては現実を
「なめらかな現象」と感じ考えその中で生きるしかない。会社でひどく嫌な上司がいても場合によっては彼の判断を好ましく思うことがあるのは、立場の違いとして当然である。
植民地に生きるとは植民者の感受性に同化することでしかありえない。もちろんなるべくそうではない生き方をしようとすることもありうるが、大勢は帝国に経済的文化的に従属していく。「浸潤」というのは存在する。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090418#p2 で取り上げたように、幼時から日本語日本文化を懸命に勉強し東大にまで至るような必死の努力の集積により、「半ば日本化した」台湾。いっぽう日本の方は植民地からの影響はほとんど受けない。この両者を一括して「滑らかな浸潤」と言ってのけるのは、どうだろう、まあ悪質な植民地主義者というしかないだろうね。

「近代化のなめらかな現象という視点」彼が彼自身の実存的意味においてその視点を発見し保持しているのはけっこうなことである。ただ現状ではただの植民地主義の肯定をとなえているだけだ。

その中で人が生きている歴史

きちんととはどういうことだろう。当事者たちが数十年間口にすることもできずに沈黙していたその巨大な残虐。

 沈黙だと思うのは、noharaさんがその歴史を生きた人に実際の生身の人間として会ってこなかったからだよ。私は沖縄で八年くらし、その人々から直に聞いてまわった。2.28の生き残りの人の話を台南に聞きに行った。済州島の話は父の関連で聞いた。歴史というのはその中で人が生きているものなんだよ。

ほう。これはびっくり!
聞き取りであってもそれだけの体験をして、それで、ひたすら「滑らかな浸潤」の強調ですか。沖縄、2.28、4.3の周辺の歴史体験に付いて私は興味をもっておりますので、その関連でfinalvent氏が書かれたブログ記事あるいは活字になったものなどあればご教授ください。沈黙、語りがたさとその人の身体との葛藤を距離を隔てながらも体験できるのが、生身の面接の特権だろうと思います。語り得ないそれをどうやって文章(や映像)に滲ませるのかがインタビュアーの力量だと思います。その中で人が生きている歴史で、沈黙と無縁のものなどあるのですか?