松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

この村、この町、この言葉、そうしたものは私のものである

8月14日にNHKで「フクシマを歩いて 徐京植:私にとっての"3.11"」という番組があったようだ。
http://kscykscy.exblog.jp/16234278/ こちらのブログでその紹介とテキスト化をしておられるので、それを読んで感想を述べたい。
徐京植氏はそこでプリモ・レーヴィの発言を紹介する。

「そういうものであるだけに、まさに不安をかき立てるような推測はなかなか根付かないのである。極限状態が来るまで、ナチの信徒が家々に侵入してくるまで、兆候を無視し、危険に目をつぶり、都合のいい真実を作り出すやり方を続けていたのである」


レーヴィはアウシュヴィッツで1年近く強制労働を経験したイタリアのユダヤ人。ヨーロッパのユダヤ人にナチスによるユダヤ人絶滅政策がひたひたと迫っていた当時、その事は概ね当のユダヤ人にも分かっていた。だとすれば「なぜ逃げなかった?なぜ動かなかったんだ?」という問いは当然やってくる。
もちろん現在の福島の被災者がそうであるように引越しして仕事を確保できる見込みがなければなかなかうごけないものではある。しかしプリモ・レーヴィはそのような答え方はしない。自罰的なまでに自己を問い詰めようとする。

「この村、この町、地方、国は私のものである。そこで生まれたのだし、祖先はそこに眠っている。そこの言葉を話すし、そこの習慣や文化を身につけている。おそらく自分もその文化に貢献している。税金を払っているし、そこの法律を守っている。」

この村、この町、地方、国、そして何よりも言葉、そうしたものは私のものである、とレーヴィは率直に言い切る。
私のものではなかったという政治的断言を選んだ人は、シオニストになりイスラエル国家建設を支持していくだろうが、レーヴィは違う。
もちろんユダヤ人差別がなかったわけではない。したがって、ユダヤ人たるレーヴィは異邦人(たとえ千年住んでいても)、よそ者でもあったことは間違いなかろう。しかしそれでもレーヴィは言う「そうしたものは私のものである」と。
これは他者が容喙できない真実である。ツェランのドイツ語、そしてまた金時鐘の日本語は「そうしたものは私のものである」としか言いようがないものである。*1


だがしかしそれはまあ微妙な「真実」ではある。なぜならマイノリティは政治的正しさを表現のどんなレベルについても追求せざるをえず、そうした場合「そうしたものは私のものである」という表現はPC的に疑問符が付けられる。しかし、それは詩人だけの特権ではなく二つの国の間で暮らすマージナルな庶民はすべてが共有している状況を素直に表明したものにすぎない。

「そういうものであるだけに、まさに不安をかき立てるような推測はなかなか根付かないのである。極限状態が来るまで、ナチの信徒が家々に侵入してくるまで、兆候を無視し、危険に目をつぶり、都合のいい真実を作り出すやり方を続けていたのである」

自己にとって考えることができない切断、理性的にはそう結論すべきであったとしても理性以外のものがついていかず、クライシスが実際に訪れるまで「兆候を無視し」、自分にとって「都合のいい真実を作り出すやり方」でなんとか日々を営んでいた。


311以後、徐京植も「韓国にいる友人から、大丈夫か、とか、あるいは一刻も早く韓国に逃げて来いというような連絡を受けました。だけどそうしなかった。」したがって徐京植は「そのことを私は、自分はなぜここを動かないんだろうということを考え」ざるをえなかった。

つまり、不安を感じないわけじゃないんだけども、様々な人間をからめとっている網の目、その人間が簡単には抜くことのできない根というものがあるがゆえにですね、

そうしたものは私のものである、と徐京植は言い切るわけではない。人間というものは「簡単には抜くことのできない根」をこの村、この町、地方、国、言葉に生やしてしまっている。客観的に言い直すと

祖父の場合に根こぎにされて日本に来たんだけど、それから三世代のうちに、私はこの社会の網にからめとられて、この社会に根を下ろすことになっている、と。半ばでも。ということです。

それは普段は意識することがない、しかし、それゆえに危機の状況に於いてそうした存在の被拘束性が意識されざるをえない。


どう生きれば良いのか、という教訓はレーヴィも、徐京植も示してはいない。もちろん原発の賛否にも直接は結びつかない話だ。しかし、故郷を失うとき人は、他人には理解しがたいある空洞を存在させてしまう。そのことは理解できる。


で以下はまあ余計ですが、scykscyさんの感想に触れる。
scykscyさんは「語りであることを差し引いても、この文章は論理的に破綻している。」と断言する。

レーヴィは、ドイツの法を守り税を納め「文化に貢献している」と考えたがために、逃げ遅れ、虐殺された者のある種の慢心を抉ることを通じて、残された者たちにある種の「警告」を発しているといえる。

これが、scykscyさんのレーヴィの読み方だ。
「この村、この町、地方、国は私のものではなかった」という政治的断言を選ぶ人、つまりシオニストとおおむね同じ傾向であるようだ。

 徐は結局、「私はこの社会の網にからめとられて、この社会に根を下ろすことになっている」、だから韓国に避難しなかった、と言っているにすぎない。それを正反対のレーヴィの警告を誤用して粉飾しているのである。

「この村、この町、地方、国は私のものである。」といった、ある種の平板な思想者からは意味不明にみえてしまう表現を積み重ねたのがプリモ・レーヴィである。レーヴィの文章からレーヴィ本来の思想とは大幅にニュアンスが違う「レーヴィの警告」なるものを取り出し徐京植を裁こうとしてしまう。
分かっていないのかもしれないが、レーヴィを誤用しているのが、scykscyさんの方である事は明らかである。


追記:

西川長夫の「植民地主義」論

というのがあるらしい。

西川は『〈新〉植民地主義論』のなかで、「国民は広大な『最初の植民地』」と規定し、全ての国民国家形成のうちに「植民地化」がはらまれていると主張し、それを「植民地主義」と呼んでいる。小森陽一も「自己植民地化」なる意味不明な用語を作り出して似たようなことを言っているが、この定式によれば、事実上「植民地化」は「国民化」と同義語となる。実際、西川は「戦後日本」も「植民地」であったし、大学も「植民地主義」の再生産装置であると述べている。西川は「民族自決」をひどく嫌っており、実は非常にたちの悪い反・反植民地主義者なのだが、(同)

ふーん、そうなんだ。

*1:同時に「そうしたものは私のものではない」としか言いようがない。最近の講演会でも金時鐘はそうした事を言っている。