松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

李光洙の『無情』、読んだ。

李光洙[イグァンス](1892‐1950)の『無情』というのを、読んだ。*1
朝鮮最初の近代長編小説ということだ。訳者は波田野節子。*2


彼が25歳だった1917年に書かれたらしい。
1910年日韓併合直後の朝鮮を舞台にしている。
京城学校の英語教師李享植は午後二時に四年生の英語の時間を終え、降りそそぐ六月の陽ざしに汗を流しながら、安洞にある金長老の屋敷に向かっている。」というのが、最初の一文だ。*3


主人公李享植は向上心のある良心的青年。女性に対してうぶだと紹介される。で金長老の娘に英語の家庭教師をすることになった場面が描かれる。
ここで金長老の妻がちらっと出てくる。「夫人はもと平壌の名妓で芙蓉といい」という紹介で。オリエンタリズムでいうと、日本といえば芸者、朝鮮といえば妓生(キーセン)である。しかし、朝鮮の支配階級両班とその儒教的性秩序意識は、日本人には想像もできない強固さを持っている。つまりれっきとした両班である金長老が再婚とはいえ妓生を妻にするというのは、当時の社会では、大変なスキャンダルだった。
伝統的にも時代的にも(維新=伝統の解体)、かなり「いいかげんな」日本の家族規範意識とは桁違いのタブー意識がそこに存在していた。*4


平安南道に朴進士という人がいて、新しい時代の為の教育を志していた。学びたくても学資がなくて学べない気の毒な子どもたちを衣食の面倒までみて教えていた。、両親を失ってあてどなく放浪していた李享植も、彼に救われたのだ。
朴進士はもともと対して多くなかった財産をこうした教育の為に使い果たしてしまい、学校経営ができなくなる。生徒が犯罪を犯してしまい、朴進士とその息子二人も監獄に入ることになる。娘英采だけが残され、親戚に引き取られ、享植は放浪生活に戻ったのだ。
英采は親戚のイジメから逃れ、一人で平壌に来る。親を助けようと妓生になるが、周旋人に身売り代金二百円を持ち逃げされ助けることもできなかった。悩みを打ち明けたく享植に会いに来るが、その核心(妓生になったこと)を打ち明ける決心がつかず帰って行く。

一人で平壌に来て、どこかの悪い男か女に騙されたあげく、妓生になってしまったのだ。ソウルで妓生稼業をしているうちに、風の便りで僕がここにいることを知って訪ねてきたに違いない。もしそうなら、いったいどんなつもりで訪ねてきたのだろう。幼いころ一緒に遊んだ友達の顔を一目見たくて訪ねてきたのだろうか。そして僕を見て、昔のことやら両親と兄弟のことやら思い出して、涙ながらに身の上話まで始めてしまったのだろうか。話しているうちに、妓生になったことを打ち明けたら嫌われるのではないかと怖くなり、話をやめて帰ったのではないか。


英采同様、享植もよるべない身の上だ。共通点があるから相思相愛になり、無事添い遂げればよいのに、と読者は期待したかもしれない。(よく知らないのだが、東アジアには才子佳人小説という物語類型があるらしい。才子Aと佳人Bが運命のいたずらに弄ばれ、苦難するが最後は結ばれるという筋のようだ。定められた相手との絆が、運命のいたずらよりもなお強く存在するという思想がこうした小説を支えており、それは「貞節」を形而上学的に強化したものでもある。)


享植はトルストイなどを読む新時代の青年だ。「貞節」よりも個人の自由、「そのひとを本当に愛しているのか?」を重視しなければならない、と考える。
しかし、実際にはよるべない身の上でしかも向上心(新時代の教育を受けたいという志向は朝鮮においては具体的には日本あるいは米国への留学を意味する)の強い享植は、援助者の意向に逆らえない。


「愛してますか?」というシンプルな問いは怖ろしい。


援助者金長老の娘善聲もまた若く美しい娘であり、援助者は享植と婚約させようとする。
享植は二人の女性のあいだで、自分のほんとうの方向性、意思、愛情というものを厳しく問い詰められていく。
彼の自負する新思想なるものはこの「どちらの女性を選ぶか」といった、ありきたりの問いにすら耐え得ないほどの、うわっつらのものではないのか?
この小説はこの問いに答えきってはいない。しかしその問いを丁寧に問い詰めようとしたことが、この小説のテーマであろう。


烈女伝が持つ激しい自己犠牲、他人の為に自分を身売りするエピソードは英采によっても反復されている。
その一途さ、強さの美しさを作者は肯定する。しかしその肯定の仕方はすこし奇妙なものだ。そこには確かに美しさと強さが存在するがそれは素直に受け止めれば旧時代の、制度、道徳を強化するものでしかないのだ。英采の強さと美しさは肯定されながら、収束するのではなく(享植と結ばれるのではなく)、妓生の芸を芸術に昇華していくことで果たされる。


朝鮮・韓国の近代小説(小説以外も)読んだことないので、読まなきゃ!と強く思い読んでみたのだ。この小説は最近訳されたせいもあるのか、非常に読みやすい。内容それ自体どこまで評価しうるかは別として、自分のうちに無意識に成立している「近代」「日本/朝鮮」「小説」といった枠組みを問い返す上では、とても適したテキストであると言える。


追記:
貞操が女の命だから、貞操が汚(けが)されれば身を殺すのが当たり前である。」と友善という享植の友人は言う。*5
享植と同じく新時代の思想の持ち主で快活な新聞記者であるにも関わらず。「貞操」観念の社会に対する浸透のあり方が朝鮮と日本ではまったく違うのだ。この小説から30年も経ってない1945年当時の朝鮮の下層階級出身の、いわゆる従軍慰安婦たちにとって、「貞操」観念というものが自己を罰するものとして強く存在していたことが、想像できる。自らそれの正反対の行為を日々強いられたが故に、なおさらだ。
慰安婦」という言葉さえ強く忌避するそうした意識を、ひとまず尊重せずに、開明的な朴裕河さんのように自分の性意識だけを基準に「和解」とか唱えても無効であろう。

*1:

無情 (朝鮮近代文学選集)

無情 (朝鮮近代文学選集)

*2:この6月に中公新書から『李光洙』を出した方。小説読了後、この本も買ったがまだ読んでいない。

*3:長老というのは教会の役職名

*4:ヒロイン英采は子供のころから『小学』などとともに『列女伝』を父から学んだ紹介されている。

*5:p186