松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

ハンドル名による言論は理性の公共的使用たりうる。

 カントに「啓蒙とは何か」という本がある。薄い本だが最近人気がある。そのなかに理性の公共的使用と私的使用の区別という議論がある。

  1. 公共的使用:あるひとが学者として一般の読者全体の前で彼自身の理性を使用する
  2. 私的使用:公民としてある地位もしくは公職に任ぜられているひとはその立場においてのみ理性を使用することが許される、そのような使用法

先に紹介した『反論』という本は7人ほどによる共著だが、うちの一人倉橋さんが彼の論文でカントの上の議論を紹介している。*1カントの時代と違って現在は民主主義の時代なので、例えば警察や税務署も国家つまり「われわれ国民」という公共善のために行為しているということになっている。しかしそれは建前に過ぎず実際はそれぞれの特殊性において行為しているのだ。カントの問題意識は「制度からの人間の解放」である。
「さまざまな制度や形式は、人間の自然的資質を理性的に使用せしめる−−あるいはむしろ誤用せしめる機械的な道具である、そして、これらの道具こそ、実は、未成年状態をいつまでも存続させる足枷なのである。」とカントは言っている(らしい)。
首相や経団連会長の発言などは大きな社会的影響力を持つ。しかしそうしたものは、自律した主体による自由な理性使用の産物ではなく、立場や利害に基づいているので重視するべきではない、というのがカントの立場だ。

匿名=2ちゃんねる=悪、という連想からしばらく離れて考えなくてはならない。ここでカント的には、会社員A、公務員Bといった戸籍名で発言することは理性の私的使用につながりやすく、社会的属性をいったん控除したハンドルネームでの発言の方が(本人が議論への真摯な意思を持つならば)理性の公共的使用につながりやすい。という結論を容易に導き出すことができる。

倉橋さんはまた次のようにも書いている。

自己の発言をネットに書き込む際に、自己の社会的属性を公開することが責任ある態度であると思っているのは、たんにアイデンティファイという戸籍の思考に陥っているからであり、他者を圧殺する同一化の論理の内部で考えているからであって、そうした思い込みは、対象を現在の姿において判断できない思想の弱さを隠蔽するものであることを、現代哲学、とりわけアドルノを通じて学んだのである。 倉橋克禎『反論』p304

 実社会における責任も果たすところの近代的個人の倫理に対し、それが戦争やアウシュビッツという非常時においては容易に反倫理に転化することに対する反省がアドルノたち現代思想である。2ちゃんねるにおける匿名言説が、日本人なら嫌韓でなければならぬというレイシストの言説(他者を圧殺する同一化の論理そのもの)などに雪崩込んでいる現象を解消できていない現在に対し、アドルノの非同一性の哲学をどう活用していけばよいのかは難しい問題である。
 しかしながら以上のようにカントとアドルノをピンポイントで確認するだけでも

ウェブ上での匿名での批判、批評を許さず、その価値観を他の者にも強制しようとする立場。
このような実名原理主義の立場をとる者の中には、自らを匿名で批判した人の実名を暴露しようとする者もいる。
http://d.hatena.ne.jp/keywordlog?klid=934598 pas-a-pasさん

実名原理主義というもの、あるいは小谷野敦さん(id:jun-jun1965)の思想がカントたちの思想にちょっとでも対抗しうるものなのかはなはだ疑わしいと思わざるを得ない。

はてな(あるいはひろくウェブ)という言説空間は、私たちが作っていくという側面が確かにあり、それを信じることが大事なのだと思っているので、以上書いてみた。

*1:同書 p317