松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

女性は通例、酒に酔うことがない。

−−女性、聖職者およびユダヤ人は通例は酒に酔うことがない。あるいは少なくとも彼らは酔ったようなあらゆる見かけを慎重にさける。なぜなら彼らは公民として微力であり、控えめであることを必要とするからである(これにはあくまで、しらふであることが必要なのである)。それというのも彼らの外面的な価値は、もっぱら彼らの貞淑さや敬虔さや分離派的な律法尊重を、他人が信じることにだけ基づいているからである。
  すべての分離派、すなわちおおやけの国法に従うだけでなく、特殊な立方にも服する人々は、変わり者であり、また選ばれた人々と自称する者として、とりわけ公共体の注目と、批判のきびしさとに曝されている。それゆえにまた、自分自身への注意においても気を弛めることはできない。なぜならば、この慎重さをうばうような陶酔は、彼らにとっては醜聞だからである。
(p98 カント『人間論』理想社全集14)

「そこでは主体のふるまい「使用」はすでにある総合、つまり人々の「慣用」に身を添わせなければならない。」とフーコーが書いたのの実例が、上ですね。
 理性的主体であってもたまたま女性であれば、自己表現にはおおきな制限がある。むしろ自己表現する主体とは認められていなかった。女性は彼らの貞淑さややさしさなどを、他人が信じる場合に、それに対してだけ価値を認められていた。


ところで、女性の主体的権利を(例えば政治的権利を)カントが認めていたかどうかといえば、二つの面があったようだ。*1
どちらにしても、カントは主体の権利の側から物事を考えていない。この場では彼女はこのようにしか振る舞えない、すでにある総合、つまり人々の習慣的視線によって規制されているという存在の拘束のされ方に注目している。社会構築主義フェミニストの先駆者と評価できる!?