惑わしと散逸に満ちた日常にこそ自由が
「カントの人間学」(ISBN:9784105067076)読了はしたが、うーんどうも消化不良。
カントと言えば三批判書であり、「人間学」は主著には数え上げられません。例外的にこれに注目した先行者はハイデガーでした。
訳者(王寺)解説によると概要は次のとおりです。
(ハイデガー) −−「批判」の企ては、カントの「哲学的人間学」の構想を通路として、私自身がとりくもうとする「基礎的存在論」の展望を開く
「批判」が示すような有限で受動的な認識を成立させるのは超越論的統覚(我惟う)の自己触発。この認識する「私」の超越を、実在する「私」の「世界」に向けての超越へ、さらに「存在」そのものへと深めていく p215
(フーコー) −−「批判」の企ては、カントの『人間学』によって反転=反復され、それを通路として、最晩年の「超越論哲学」の展望を開く p213
カントの「人間学」は実用的見地における人間学であり、世界=世間における「人間が自分自身をいかになすべきか」を問うものです。
世間のなかで客体化されつつなお自由な主体にとどまる、その葛藤はわたしたちに馴染み深いもので、そこにヒントを見出そうとしたフーコーには興味を抱くことができます。
「批判」では、認識主観が所与の多様を総合するはたらきを担うのに対して、「人間学」では、日常的ないとなみの主体はすでになされた総合のなかに置かれる。そこでは主体のふるまい「使用」はすでにある総合、つまり人々の「慣用」に身を添わせなければならない。
(わたしたちは能動性も持つ)
しかし、そうして外面にあらわれるやいなや、「心」の能力は我を見失い、失調し、倒錯してしまうのだ。解説より p216
「人間学」の経験的な水準でこそ、主体は時間のなかで活動する。主体の活動はたえず自ずから散逸し、その散逸を主体が乗り越えることはできない。
しかし同時に、時間がもたらすその散逸こそが主体の能動性の根拠であり、主体にさらなる活動を促す。その散逸は総合がつねにかりそめのものでしかないことを示し、誤謬の可能性とともに誤謬を正す自由を主体に与える。解説より p217
人間学における時間は、のりこえることのできない散逸につきまとわれている。というのも、この散逸はもはや所与と感性的な受動性のものではないからだ。むしろそれは総合の活動が自分自身に対して示す散逸であり、総合の活動に「戯れ」のような色合いを与える。多様を組織しようとする総合の活動は、その活動自体から時間的にずれる。だから、この活動はどうしても継起のかたちをとり、誤謬と、惑わしに満ちたあらゆる横滑りを生じさせてしまう。p113
難しいので結局解説の引用(文章少しづつ変えています)しかできなかったけど、まあこんな感じ。
所与の多様を総合するはたらきを認識主観が担うとカントは言った。まあそれは国家の主権を自らが担うと宣言した民主主義の成立とパラレルなわけです。
それに対して、ありふれた日常のただ中において、不可避な散逸の累積の中でなお、誤謬を正す自由を主体に与える、主体はその自由を行使せざるをえないとフーコーは言った。1968年の思想家にふさわしくも。
「知への意志」の有名な抵抗論もまったく同じところに注目したものだと言えるわけで、思想家の一貫性に興味がそそられます。