松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

生き生きとさせる心の原理が精神

さて、カントの人間学 というフーコーの若い頃の論文の翻訳が最近出たので買ってみた。(ISBN:9784105067076 ミシェル・フーコー/著 王寺賢太/訳http://www.shinchosha.co.jp/book/506707/ 丁寧に註がついているが本文自体の量は少ないのに2400円は高いがしかたない。)*1


心の能力は、認識の能力、快・不快の感情、欲求の能力の三つである。というのが判断力批判の冒頭に掲げられたいわば心の定義であり、三批判書はこの土台の上に立てられている(と考えていいのだろう)。p64
ただこの三つだけだとあんまり面白くないような気がする。


それに対して「ある種の社交界の婦人は美しい、けれども精神がない」という、教師らしからぬフレーズとともに登場するのが「精神 Geist」である。*2

「感性にとっては対応する対象はまったく与えられていないが、理性にとっては必然的である概念」が精神に生を与える。 p71

精神は、心を生き生きとさせ、経験的に規定されているからこそ受動的であるその心のうちに、諸々の理念がひしめきあう運動を生み出す。
これらの理念の運動は、生成するひとつの全体性にそなわった複数の多様性の構造にほかならず、あたかも精神のなかでいくつもの部分的な生命が生き死にするかのように、自らを形作っては消え去ってゆく。だからこそ心は、「なにものかである」のみならず、「自分自身をなにものかとなす」ものでもあるのだ。p73

それに対して禁欲的にならなければならないところの超越や神(日本で言えば大和魂)というもの、とは無縁であるとは決していえないところの「精神」。わたしたちは戦後60年それなしでやっていけるかと試みた。*3 しかしそれは安物の「美しい日本」を招き寄せることしかできなかった。
「こころを組織してひとつの生物と化したり、有機的な生命体の類似物としたり、絶対者そのものの生としたりする」こと。金正日マスゲームだけでなくオリンピックに対する国民的熱狂などというものも結局そうしたことだと思われるが、それと違った形で「心を生き生きさせる」のが精神のなしうることなのだ。
(逆になんたることか、現在日本の中等教育は、理念の運動がかりそめの秩序をおびやかすのをおそれるあまり愛国心を硬直的にだけ教育し、人生を幸せに生きないのが正しいと、教えているような気がする。)

この本源的事実の超越的なヴァージョンによると、無限は決してそこにはなく、つねに本質的なしりぞきのなかにある。にもかかわらず、その経験的なヴァージョンにあっては、無限は真理に向かう運動と真理の諸形式のつきることない継起に生気を与える。「精神」は知の可能性の根幹にある。p77

*1:カントは、1772ー73年の冬学期から "Anthropologie(人間学)" と題する講義を始め、その最終講義は1796年の春まで続き、1798年にそれらをまとめて、彼自身が刊行した最後の書物として出版しました。http://homepage.mac.com/berdyaev/mm/prmnd/iti/prmnd75.html

*2:p69 同書

*3:いわゆる動物化