松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

資源のよりよい管理方法

ぼくは「政治」という言葉は、個々人の立場表明を意味するのではなく、社会共通の資源のよりよい管理方法を目指す活動を広く意味するべきだと考える。だとすれば、それは必然的に、物語なき進歩主義、というか物語なき改革主義の立場になるはずだ。それなのに、物語の衝突ばかりが「政治」だと思われるのはなぜなのか。
http://www.hirokiazuma.com/archives/000362.html

 東浩紀さんはやはり自分だけが賢いと思っている人なのだろう。AとBが政治家である限り、主張の根拠が思想であろうが利害であろうが、「社会共通の資源のよりよい管理方法を目指す活動」としても自己の活動を意味付けているのは当然である。この当然さを踏まえられないので唯のオタクと蔑称されるわけだ。

しかし、そうなってくると、ぼくみたいな「インテリ」の「大学人」(まあそうなんだろう)は、「政治」的なことを話そうとすれば、もはや「現場」の「弱者」の代弁をやるくらいしかなくなることになる。

百年ほど前に東大に新人会ができたときから、馬鹿はずーっとそう思ってきたにすぎない。

ぼくたちはまず、「政治的であること」とはなんなのか、そこから根本的に考え直さねばならないのだ。

君たちだけが考え直せ。

ポリシーなき政治、討議なき政治だってありうるはずだ。アーレントの言葉で言えば、政治を、「活動」の場ではなく、「労働」(=消費)の場に落とすこともできるはずだ。

お前にできるならやって見せよ。

世界のセキュリティ化は、リスクという資源の配分を大きく変えたからだ。

この命題がどれほど一定の政治的前提の上に成立しているか確認しないでたれ流される言説は有害だ。

参考? 思想地図シンポジウムのレポート
http://d.hatena.ne.jp/tmu_g-kai/20080123
http://d.hatena.ne.jp/dot_hack/20080123/1201044637