松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

わたし(自由)と普遍性

人びとはこれまで、人間は義務によって法に拘束されているのだ、ということを見てとっていた。しかし、人間はただおのれ自身の−−おのれ自身のとはいえやはり自然普遍的な−−立法にのみ服するということ、そして、人間はおのれ自身の−−おのれ自身のとはいえやはり自然目的からすれば普遍的な−−立法的意志に従ってのみ行為するべく義務づけられているということ、このことに誰も気づかなかった。(カント)*1

 2ちゃんねるアナーキーを考えるとき、このカントの一節は示唆的である。立法という言葉から最も遠いかに見える彼らが、実は彼らなりのルールを強く共有していることは広く指摘されてきた。で問題はそのルールとそれぞれ一個の「おのれ自身」という存在、そしてそれと普遍的立法といわれているものとのかかわりである。
〈おのれ自身のとはいえやはり自然普遍的な〉という祈りをこめたまじない言葉が反復されている。自分勝手であることと普遍的であることのかなりの落差を、カントはこの「とはいえやはり」でつなぐ。私的利潤の最大化が社会全体の幸せにつながった(面もある)20世紀までの資本主義がその背景にあることはいうまでもない。
 2ちゃんねる的匿名主義の反動としての、実名原理主義。匿名/実名という二項対立でものごとを考えるのは愚かなことであろう。言説に対する応答責任において定義された人格の連続性が基準である。ななしさんにはこれがない。であるのに自分たちの気に入らない固定ハンドルに対しては、細部にまで厳密な言説に対する応答責任を追求し消滅させようとする傾向を往々にして持つ。したがって議論の整理のためにあえて二項対立を立てるのなら、「名無し/固定(固定ハンドル、ペンネーム、実名を含む)」になるのはいうまでもない。
 したがって、名無しに対する敵意だけしか思想的根拠を持っていないところの*2今回の実名原理主義行動は、全く失当であるのは自明である。


 で問題は、戸籍名より固定ハンドルの方がカント的言論の自由に親和的である。という考え方である。これは実践的にはすでに多くの人が実践していることである。「制度からの人間の解放」などというと堅苦しいが、例えば主婦として実名を名乗れば多くのことが自由に言いづらいのは容易に想像がつく。
しかし、戸籍名より固定ハンドルの方が言論の自由に親和的であるという論自体まだ丁寧には提出されていないようだ。そしてそれを「カント的言論の自由」と呼ぶべきなのかどうか。そこらあたりをこれから検討していきたい。

*1:『否定弁証法』p264から孫引き

*2:そうでもないと言える理屈があるなら御教授ください!