松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

現代思想フォーラムはどんな思想を産み出したのか?

と題するkazhikさんの文章を読んでみた。

ローカル・ルールとは

『反論』の著者たちが繰り返し強調しているのは「自己責任原則」である。この原則は現代思想フォーラムのローカル・ルールとして明文化され、彼らによって繰り返し自賛されている。

従来のメディアとは違い、ネットワーク社会では「反論権」ははじめから保証されている。名誉毀損にあたる発言があったとしても被害者がその場で反論することによって名誉の回復をはかることができる。管理者が介入する必要はないし、するべきでもない。ただしプライバシーを侵害するおそれのある発言に関しては、反論しても被害の拡大を防げないため、発見次第管理者がただちに削除する。これがローカル・ルールの基本的な考え方である。

私はこの基本思想そのものには異論がなかったし、現在もない。パソコン通信やインターネットを従来のメディアの延長線上で捉え、同じ原則での統制を主張する論者は現在でも少なくないし、97年の東京地裁判決もそういう立場から下されているが、それらに対してこの「言論には言論で対抗せよ」という原則を主張していくことは是非とも必要である。
http://kazhik.net/soc/?p=10

21世紀のネット状況には公共性が成立していない。

しかし、誰もが管理者になれるという時代の到来は、現代思想フォーラムでかつて問われた問題を少しも解決していない。Web上のあちこちにメーリングリスト掲示板が乱立した結果、異質な他者同士が一同に会する場が成立しにくくなり、「共感のサークル」ばかりができているというのが現在の状況だからだ。現代思想フォーラム程度の公共性すら成立しにくいので、ローカル・ルールも必要とされない。掲示板で何かトラブルが起これば、原因となった者を排除するか、または掲示板そのものを廃止することで終わってしまう場合が多い。これはある意味でCookie-LEE事件以前の状況に戻ってしまったのだと言ってもよい。
http://kazhik.net/soc/?p=10

以上の二点について全く同感である。
この文章は2000年に書かれたもののようだ。考えてみるとおそらく2004年4月にいわゆる「イラク三馬鹿」事件が起こって2ちゃんねる的言説、行動様式がネット発言者の大部分に感染するに至った。公共性という座標から考えた時に悪くしかなっていないわけである。

原告側のCookie氏が管理責任を追及したことの反動として「自己責任」や「言論の自由」ばかりを一面的に強調した運営方針は、実際には現代思想フォーラムの議論の質を低下させる役割を果たしていた。
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これを読むと現代思想フォーラムに罵倒表現があふれたのはほんの一瞬だったかのようだ。しかし、私がアクセスしていた全期間を通じて、冷静な議論とは無縁の罵詈雑言であふれかえっていたのが現代思想フォーラムだった。
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彼女らが主張するのは言論の内容を統制することだが、私が認めるのは討論の場を維持するための統制であり、場を破壊しようとする確信犯に対する統制である。しかし当時の運営スタッフにはこのような区別はなかった。

FSHISO運営スタッフに対するkazhikさんの違和感などの部分である。まあ確かにそのとおりなのでFSHISOを美化する必要はない。ただまあ「討論の場を維持するための統制であり、場を破壊しようとする確信犯に対する統制」というものをどうやって実現するかが問題であるわけです。SYSOPが啓蒙専制君主のように権力行使することで統制を実現すべきと、kazhikさんは考えておられるのか。ローカルルールというのは、某Cさんが訴訟を起こすだろうという予測の基にSYSOP(とニフティ)の責任回避のために作られたという側面も強いらしい。WAKEIさんの本来の性格はどうあれ裁判が起こってしまった以上、「自己責任」強調路線でいくしかなかったのは当然であったでしょう。