松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

自由な討論という喜び/苦しみ

 討論によってわたしたちは〈より真実に近づく〉ことができる。おそらくこれは、民主主義といわれる制度を採用する以上前提としているはずのドグマ(常識)である。討論というものにはさまざまな資源が必要だ。時間もだが資料を確認する努力や、なにより討論に対する信頼が前提とされる。
 民主主義とは何か?、討論とは何か?というのは政治学者にまかせておけばよい問題ではない。わたしたち一人一人の問題だ。しかし難しすぎる問題であるかのように思われる。
 わたしたちは自分とは意見の違う人たちとは付き合わないことができるし、日常生活はほぼそのように過ごしている。*1 しかしブログを書くのは読者を求めることである。そして、読者とは自分とは違ったものの見方感じ方をする存在である。コメント欄を開放していれば、他者がやってくる可能性がある。つまりわたしたちは他者を歓迎などしていないと思っているが、実は他者を求め他者なしには生きていけない存在なのだ。(自分に都合の良い他者を求め、そうではない他者を嫌がっているということもできる。しかし他者は他者である以上こちらの都合という基準にあわせて振る舞ってくれることは期待できない。)

 さて、今回の実名暴露のようなケースや罵詈雑言をともなったレイシズム発言など多様な危険発言がネットには発生し続ける。それにどう対応できるか? 実際にはhatenaの場合、基本的に積極的な対処はしてくれないようだ。
参考 http://d.hatena.ne.jp/kyoumoe/20071221#1198247993
私は、teraccoさんの「荻上チキ氏関連のキーワード作成を行っている人物がいるが、id:jkondo氏、id:naoya氏ほかはてなスタッフには即刻の対処を望む。」という要望に同意するものです。

具体的な話はしばらくおいて、原理的に考える。管理者がパターナリスティックにしばしば介入する場合も問題がある。管理者は削除を用いることによりブログ空間の空気を一定コントロールできるわけだが、管理者と傾向の違う思想を持った者は抑圧されることになる。ここにはジレンマがある。
わたしたちは個々別々の思想を持つので議論になれば軋轢も生まれる。しかしそれでも、言論の自由という目的を尊重するのだという点については一致し、時に激論を含む自由な議論を展開できるブログ空間を形成していこうとするという常識をわたしたちは確立していくべきだろう。
現段階でははてな当局による(恣意を含む)介入という形しか取れないとしても、ブログは、アクティブによる世論を形成しやすいメディアである。今回であれば、
http://d.hatena.ne.jp/demian/20071221/p1
http://d.hatena.ne.jp/umikaji/20071220/1198150410#c
の二つのまとめサイトの結論を、hatenaも無視し得まい。(違う意見がある方はコメントしていこう。)

このような問題に付いて、かなり持続的に熱心な討論が行われた事例が過去にあった。もう10年以上前のパソコン通信の時代だが。ニフティサーブのFSHISOというフォーラムがそれだ。いくつかのトラブルを経て彼らは自分たちの「ローカルルール」を膨大な討論の末作り上げていった。今後のインターネットの言論の自由を考える上でも重要だと思うので、資料として下記にUPしてみた。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/11000201#p1
http://d.hatena.ne.jp/noharra/11000201#p2

自分たちがルールを造るという経験によって形成されていく共同性。それがまさに民主主義なのでしょうがわたしたちの大半は実際は民主主義を経験したことがないのではないでしょうか。わたしもFSHISOの経験に参加したわけではありません。(終わりのころ周辺部にいた) まあ実際には民主主義とは手間ばかりかかるやっかいな日常にすぎません。
しかしそれを基準にしてものごとを考えないと、なんだかおかしな方へ話がずれていくのではないでしょうか。

*1:場合が多い