松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

別の主体の構造へ入りこんで行ける。

私は思考する。その思考を支える土台、枠組、論理(ロゴス)といったものが存在しなければならない。「だがそれによって思考が成り立つ当のものを、その思考自体が思考することはできない。そのような試みは、おのれの思考がそれによって養われているところのものを当の思考から引き剥がすことだからで
あり、そのとき思考はおのれを養い・支えてくれるものを見失うことで、立ち行かなくなるからである。*1

というわけで形而上学というかそういうものは不可能だ。簡単に言えばそういうことになる。

思考の現場においてたえず生じている微細なノイズの中に思考と事象との衝突を体系のかすなな軋みとして告げるノイズが混じっていないかに、つねに聴き耳を立てている必要がある。*2

「私が思考する」という前提に疑いを持っていないならば、それに気づくことはできない。


つまりわたしたちは「別の主体の運動に入りこんで行ける。*3」と語るしかないのである。
政治的効用性や日々の雑事に追われているつまりこの社会における差異を自己化することに専念してしまっているわたしたちは、そう名指し得るかぎり*4、相互的な他者の時間的・空間的な変移をさぐることによって、別の主体の運動に入りこんで行けるのだ。

*1:斎藤慶典 p220 岩波講座哲学02

*2:斎藤p231

*3:http://d.hatena.ne.jp/noharra/20051114#p5

*4:虐殺されたものの祝福において!?