松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

(3)

たとえば、吉田満の『戦艦大和ノ最後』に登場するある大尉は「敗れて目ざめる、それ以外にどうして日本が救われるか 今目覚めずしていつ救われるか 俺たちはその先導になるのだ*1」と語るが、彼に対して加藤は、「たとえ一人であれ、わたし達がこのような死者をもっていることは、わたし達にとって、一つの啓示ではないだろうか」と賛辞を呈している。*2(同上p105)

私はこのことに疑問を覚える。
 捨て石といって悪ければ「先達」の意識−−それは人間としてたしかに見上げた心構えといえるのかもしれないが、その前提には何といっても日本という連綿と続く共同体への帰属意識がある。(同上p105)

敗戦後論』における加藤の「文学」観の有力な論拠として、しばしば引き合いに出されている大岡昇平は、神風特攻で命中や至近突入が少なくなかったことに触れ、「想像を絶する精神的苦痛と動揺を乗り越えて目標に達した人間が、われわれの中にいたのである。これは当時の指導者の愚劣と腐敗とはなんの関係もないことである。今日では全く消滅してしまった強い意志が、あの荒廃の中から生まれる余地があったことが、われわれの希望でなければならない。」と述べている。(同上p107)

なぜなら、戦局にからめとられらた「盲目状態」においては、敵の攻撃に精魂を傾けるという兵士の選択は、上に述べたような意味で許される(弱い意味で正当化される)かもしれないが、戦争、ましてや侵略戦争の罪悪を十分に心得ているはずの戦後における言説でそれを称揚することは、自分や兵士が「誤りうる」存在であることに開き直る、強い意味での「汚れ」の正当化を果たしていると思われるからである。
(同上p108)

吉田満や彼に似た多くの兵士たちに日本への帰属意識があったことはもちろんだろう。それはなにかいけないことだろうか。現在、生の不安にかられた庶民が日本/日本人というものにアイデンティティを求めようとすることに私は批判的だ。だが戦争という追い込まれた情況でなお、日本への帰属意識を持つべきでなかったとするのは、無理がある。
一方、加藤の言う「一つの啓示ではないだろうか」というのもあまりはっきりしない。
わたしは下記のようなヤスパースの意見を引用した。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20051009#p3
戦友精神を体して誠実を守り、危難に臨んで動揺することなく、勇気と要を得た態度とによっておのれの真価を発揮した者は、おのれのうちに侵すことのできない何ものかが存在することを常に自覚していて良いのである。

大量虐殺や自国兵士を餓死に追いやるなどの絶対的犯罪をまず犯罪として確認すべきだった。それができなかったのは何故か。すべての戦争加担は悪である、として終わったことにしてあるいは他者の責任にして、(広い意味の)自己の責任は問わずにやり過ごしてきたからであろう。
「想像を絶する精神的苦痛と動揺を乗り越えて目標に達した人間」を肯定的に受け止めることは、わけのわからない戦争に国民を動員し充分には責任を取っていない天皇ヒロヒト以下の支配層を撃つ、支点とエネルギーに転化できると思う。
「それを称揚する」いわゆる右派の言説が大きな勢力を持っているのも確かであるので、難しい問題ではあるが。


どちらにしても、中岡の「排除しない思考は可能か」はタイトル通りの高級すぎるテーマを、戦場のような具体的現実に直接下ろしてきて、なおかつ何か言えるはずだとする根本的錯覚にのっとった文章だと思う。

*1:原文かな部分はカタカナ書き。ひらがなにしたのはめんどくさいから。カタナカのアナクロな雰囲気に中岡が反応している可能性もあるとは思った。

*2:62という数字があるが、たぶん『敗戦後論』のページ数だろう。