松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

主体として生きぬいた

「ねじ曲げられた桜」つながりでたまたま見たブログの文章が、奇妙でどこか引っ掛かるので引用させていただく。

http://d.hatena.ne.jp/tabaccosen/20050721 tabaccosen - 小田実の「玉砕」について○

○戦中派なのだ。戦争に関して「聖なるもの」を叩き込まれた世代なのだ。その意味では、pureなのだ。これがかれらの世代の基底を形成している。「散華」に「特攻」の動機をもっていくのは、打ち込まれた思想の徹底性以外のものではあり得ない。しかしかれらは、主体としてそれらの問題を自分に引き戻しだ。それが「整理」の中身であり実体なのだ。<美しい>から救われるのではない。あくまで主体として考え生き抜いたのだと強弁することで己が保たれる。その認識が危険なのだ。

わたしは小田実を読んだことがないので分からない。
「著者である小田は、思想し抜いたとでも言わんばかりに、結語的に言う。」その結論に対して、tabaccosenさんは「自己を肯定せずにはいられない弁明性を根拠としているに過ぎない」という言葉を投げつける。