松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「牢獄から我々は脱出できない」は嘘

でその上で、次の問題がある。

 ハルキのエルサレム賞演説は、それが優れたものであればあるほど、エルサレム賞の権威を高めてしまう。日本よりよほど高度な民主主義国家であるとと同時に、文学的文化的にも高度な国であるという事実をいやがおうでも見せつける結果になる。 http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090217#p1

ところが、嘘を嘘だと言い、自分にできるできる限りの誠実な態度を取ろうとすると、それすらも「永遠の嘘」を構成し、補強する一部になってしまう可能性があります。
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20090216/p2

 わたしはhokusyuさんとは違って、これはアウシュヴィッツイスラエルという特定の歴史ー地理的言説空間の歪みとして考えている。だから日本人は素直に考えれば、その磁場に歪められずに思考〜行動できるはずだ。*1

 逆に、あらかじめ「賞を貰った上でどれだけ批判しようとも、それはイスラエルの「寛容さ」を示す材料にしか使われない」と断定する態度はどうでしょうか。その批判的なトーンとは裏腹に、プロパガンダが認めさせようとしている前提を共有してしまっているのです。これこそが、このプロパガンダの完成を手助けしていると言えないでしょうか?なんでわざわざ自分でそんなことをしようとするのか、僕は不思議でなりません。
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090220/p1

 イスラエルという特定の歴史ー地理的言説空間の歪み、なんてことは例えばサイードにも書いてあることであり、それを私が強調することにどういう意味があるのか。予備知識なしに、傷ついた子供の写真を見て感情的になっただけの人であればその人に何が欠けている、と野原は主張しようとしているのか。いや別に主張すべきことはない。

なぜなら、アウシュヴィッツ(ガザ)の後で、どのような正義=主体が存続可能なのか? 
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090217#p1

 とは、まさに自己解体とともにしか書き得ない1行であり、そうした危機に立っていない私が書くのはおかしい、と指摘されるでしょう。
しかしわたしは下記のような、わたしの存在を少し越えた、不可能性を孕んだ文体に親しむ機会を経つつ、考えてきました。結果として、不可能性を口にすることが直ちに不誠実になるわけでもないし、ふつうの生活のなかで不可能性に出会う可能性も(いつだって)ある、とは言えるのではないか、と考えています。

自己が依拠してきた最近発想や存在の様式を変換する契機を、日本の戦後過程における社会構造の責任との関連において、極限的に迫求する方向に見えてくるヴィジョン。(松下昇) http://d.hatena.ne.jp/noharra/11000123#p1


アウシュヴィッツ(ガザ)の後で、どのような正義=主体が存続可能なのか?
「しかし、今僕は、インテルのCPU&マイクロソフト・ウィンドウズ搭載のパソコンで、これを書いています。(mojimoji)」
分裂した主体がそうであってもその総体を、なんらかの相互検証に開きうる、その上で他者からの指摘を自己に取り込みうる存在でありうると、仮りにそうであるとしたらならば、分裂した主体で十分上等ということになりましょう。

*1:といえるのに、なぜ2/17には否定しているのか?