松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

解釈遊びを始める馬鹿

ohnosakiko 精密で鋭い指摘/>パレスチナ人の立場に立って考えるべき人々が、ご都合主義の解釈で、村上の自己免罪のスタイルに感染したような口ぶりをしているのを見ると、何のためのヒューマニズムか、と 2009/02/21
http://b.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20090221#bookmark-12221581

kurahito mojimojiさんを批判しようとするとhokusyuとかも射程に収めないといけないから面倒くさいんだよね。後、解釈遊びを始める馬鹿が現れるスピーチは有害。 2009/02/21

 解釈遊びを始める馬鹿、という指摘をどう考えるか? 確かに村上のスピーチは、優等生的ヒューマニズム言説として消費され、教科書にも載るかもしれない。壁と卵、システムとわたしというメタファーはあまりにもわかりやすくあまりにも強力であり、言葉として観賞する多くの観賞者を招き寄せるだろう。
 だが言説にどう戦略的に向き合うのかが、問われている。村上の「村上の自己免罪のスタイル」=文体を指摘することにどういう意味があるのか。指摘する自己を肯定するというメタ自己の肯定でしかないのではないか。
パレスチナ人の立場に立って考えるべき人々」とはいったい誰のことなのだろうか、それが自分でないと自明に措定されている(としか読めない)のであるから、id:ohnosakikoは、(自分の批判しているところの)春樹と同じ体質を持っている、と結論できるではないか。

ああいうスピーチにことばが誘発されるのは、正直見ていて恥ずかしい。小中学校の国語で、その手のくさい「隠喩」がすばらしいものであるかのように、習いませんでしたか。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090221#c1235225985

 春樹スピーチ批判は当然なされるべきものだったでしょう。
わたしのいらだちは、biiさんの文章に対する批判としてもそれが成立しているとあなたが書いているところにあります。
id:tmsigmundさん
1)今回、春樹はどのように振る舞っても批判を免れえなかったという罠にはまった、という点は同意いただけるでしょうか。
2)そして次のターンでは、村上のテキストが登場します。このテキストに対して、わたしのように卵というメタファーと戯れてみせること、それが「正直見ていて恥ずかしい」ふるまいである、という感受性には同意しましょう。
3)しかしながら、あなたの行為もまた「卵というメタファーと戯れた」ことになるのではないでしょうか。そうでないというなら、「この父親が中国戦線で多くの中国人を殺してきたはずだということである。」という、被殺害者の存在が、あなたの文章を「戯れ」から区別する唯一のポイントではないでしょうか?
4)「被殺害者の存在」を支点にして文章を構成してしまうのは、アウシュヴィッツ被害を強調する神学的文章構成法にひどく似ているのではないでしょうか?

noharaさんが特にそうだとは、思いませんが、noharaさんが特にそうだとは、思いませんが、多くの村上擁護者の感性は、非常に幼稚なものだと感じています。は、非常に幼稚なものだと感じています。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090221#c1235225985

biiさんとmojimojiさん(の文章)を、不用意に「多くの村上擁護者の感性」と混同しつづける、あなたの皮膚感覚による反応が問われているのです。批判したいならちゃんと文章を引用した上で行うべきです。
その前にわたしの文章も批判可能なのでしょうか?