松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「フランスからの手紙―ある哲学研究者の東浩紀批判」の紹介

おとなり日記にはあがっていなかったが、挙がるべき日記でしかもわたしの*1より要点を的確に書いてあるように思ったので、3箇所だけ引用させていただく。
id:toremokoさんの友人の哲学徒の意見。
まず、「歴史的真実など決定的には知りえないのだから、「何もわからない」というところに停止するしかない。→例:南京大虐殺」への批判。


デリダの「決定不能性」の哲学とは、複雑な現実を例えば階級的視点に還元することを許さないということ。しかしそれは決定を回避することではない。デリダはこう言う。

分析は、先行的な知によって保証されることなど決してなく、それぞれの場所で、日毎に再開されねばならない。こうした条件において、こうした命令条件においてこそ、行動、決定、政治的責任――再政治化――は、そうしたものがあるとして、あるのである。《決定不能なもの》は、私にとって、決定の反対物であったことは一度もない。それは、決定が計算機においてなされるような具合には知から演繹されない場合の、決定の条件なのである。(デリダ
http://d.hatena.ne.jp/toremoko/20081219/1229682735

それでもデリダには、「正義」「真理」「民主主義」といった、これらの非常に危うい言葉を、別の仕方で考えねばならないという、切迫した認識がある。「わかんねーよ」という非−知の領域は、そこに避難できるような世界の安全な隔離された片隅じゃあない。東がおそらくそれを理解していながら、わからない振りをするのはどうしてなんだろうか、と俺には非常に不思議。それとも彼は本当にデリダを、ただ単に誤読しているのだろうか。
http://d.hatena.ne.jp/toremoko/20081219/1229682735

東がデリダの〈切迫〉を知っていながらわからない振りをするのはどうしてなんだろうか?!


結論としては、

わかんないとだけ言って立ち止まるのは、問題が問題であること自体を拒否するような姿勢じゃないか。でも問題を拒否したからって問題がなくなるわけじゃあない。東の内心だけは平静を取り戻すのかもしれないが。