松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

赤子に死を与える

 貧しさに苦しむみなさん、この魯立人を人でなしと思いますか? この二人の子供を銃殺にするのがどんなにつらいか、分かりますか?所詮は子供です。ましてや私とは親戚関係にある。だが、そうであればこそ、わたしとしては、泣いてこの二人に死刑を宣告せざるを得んのです。みなさん、麻痺状態から目を醒ますのです。司馬庫の子供を銃殺することで、わたしたちは退路を断つのです。子供二人を銃殺するように見えますが、じつは子供ではなくて、反動的な遅れた社会制度を銃殺し、二つの符号を銃殺にするのです。みなさん、起ち立ち上がりましょう。革命しないことはすなわち反革命、中間の道はありませんぞ!
(魯立人の発言)

p344 莫言『豊乳肥臀・上』吉田 富夫訳 平凡社 ISBN:4582829384

 まず、情況説明が必要かもしれない。莫言の『豊乳肥臀』という抗日戦争から革命期の中国の農村を描いた小説の一場面からの引用である。
革命とは権力者の交代である。中国の農村(小さな小さな村)はそれぞれ、二、三の家が8、9割の農地を所有し地元政治を支配している。その様子は丁玲の『太陽は桑乾河を照す』*1や、鄭義『神樹』*2を読むとよく分かる。
二、三の家が8、9割の農地を所有しているのは階級闘争の法理から言うと不当である。土地財産はできるだけ平等に分配すべきである。でまたその支配者も階級敵として罰せられなければいけない。
誰がどのように罰するか? 小さな小さな村でいちいち「闘争大会」を開き、直接民衆に裁かせる。
抗日戦争中からこの小説の舞台である高密県は共産党系軍事組織と国民党系のそれとの間で取ったり取られたりを繰り返している。この段階では前の段階のボス司馬庫を駆逐し共産党系がやって来る。そして自分たちの思想を大衆に浸透させるため「闘争大会」を開く。

その日、高密県東北郷の十八の村や鎮(まち)のいちばん貧乏な人間の代表が黒々と固まって、司馬家のこなし場の半ばを埋めていた。周りには、県や地区の武装隊からなる歩哨が、三歩か五歩間隔で立っていた。(略)
舞台の下はしんと静まり返って、多少とも物の分かる年頃の子供までが、泣き声一つ立てない。もっと幼い子が泣くと、すぐさま乳首を咥えさせられる。*3


中国革命の原点である小さな村での「闘争大会」。それはわが沖縄集団「自決」にも似た血みどろの親を子が殺し子を親が殺すにも似た、残虐の極みであったかもしれない。それにしてもその空間は、権利に於いて誰でも参加し発言できる(今まで抑圧され言葉を奪われていた者にはハンディキャップをつけ発言意図を汲み取って聞き取ろうとする)直接民主主義の討論〜審判空間であった。権威はそのような「闘争大会」に存在する。密室の党中央委員会での権力闘争による決定は何の思想的優位も僭称できない。


そんなわけで、この場でこの村のかっての支配者(代々の支配者一族であり先日までの国民党系軍閥の主)である司馬庫が裁かれなければならないわけである。ところがここで大きな問題がある。狡猾なる司馬庫は逃走したまままだ捕まっていないのだ。
で、村一番のインテリであり最近高東県の県長兼武装大隊隊長になった魯立人は告発する。司馬庫の子供を銃殺にせよと。
これは近代的法意識から言うと無茶苦茶である。六年前に取り上げた丁玲の小説の共産党活動家*4も決して許しはしないだろう。


最悪なものはスターリニズムだ、と言い捨てるしかないわけだが。ただね。中国のことを好きな人も嫌いな人も日本人はそうした「中国の地の底」の出来事を注視せずに、自分が持っている自分に都合の良い中国像だけを守って原稿を書いたりしてきた。ある意味三国志金庸のことをしか知らない大衆以下の視野の狭さである。


でこのことを考えていたらsumita-mさん経由でcharisさんのブログ記事を読んだ。私も以前から、キルケーゴール〜デリダを始末できずに気になっていたテーマだ。


すなわち、魯立人の提起は、キルケゴール風に言えば、「倫理的なものの目的論的停止というものは存在するのか」という問いになる。*5
倫理的なものは普遍である、したがって答えはNOだ、とまずキルケゴールは答える。
しかしキルケゴールはここで有名なイサク燔祭*6 を論じているのだ。殺人は悪という常識で足りるならアブラハムは人殺しであるが*7、そうではない位相がキルケゴールにとっては存在しなければならない。
ふつう人間は常識(法律や道徳)に服従して生きる。しかし衝突してしまう場合もあるのだ、そのとき、ひとはただひとりで「絶対者に対して絶対的関係に立つ」ことになる。キルケゴールはそれを「信仰の騎士」と呼ぶ。


ひるがえって一つの共同体の再生の為には、一つの死が必要なのではないのか? 絶対的に無実である無辜の赤子を殺すこと、階級闘争というただの抽象概念を受肉させるためには、わたしが私個人において「絶対者に対して絶対的関係に立つ」必要がある。私が赤子を殺す必要があるのだ。


「私が赤子を殺す必要がある」は言うまでもなく倒錯であろう。しかし、殺すとか殺されるとかいう極限的情況に立ち至ったことが無いだけなのに、そうである自己を掘り下げもせず「殺人は悪」という善の立場に立って安心している人は、それを糾弾する権利がない。かえってその倒錯と共犯関係にあるのだ、と私は思う。

矛盾や逆説はまさにその瞬間において耐え抜かれなければならない。二つの義務は矛盾しなければならず、一方は他方を従わせる(体内化する、抑圧する)べきなのである。(略)息子への愛は完全無欠であり続け、人間的な義務の命令はおのれの権利を行使し続けなければならないのだ。
(p138 デリダ『死を与える』)

ひとは倫理的に責任を持って振る舞うだけでなく、非倫理的で無責任にも振る舞わなければならない。そしてそれは義務の名において、無限の義務、絶対的な義務の名においてなのだ。さらに、つねに特異なものでなくてはならないこの名は、この場合まったく他なるものとしての神の名、神の名なき名にほかならない。(p140 同上)

 中国の片田舎の薄汚れた共産党の集会で、魯立人は二人の赤子への愛を語る。その愛は偽りではない。そしてその子に死を与えることにより、彼は〈まったく他なるものとしての神の名、神の名なき名〉を出現させる。高東県の県長兼武装大隊隊長といった立場を越え、中国共産党という立場を越えて。

 司馬鳳と司馬凰は支え合いながら立ち上がって、恐怖の目でお祖母ちゃんを探していた。(略)
 ーー馬に乗った二人が旋風のようにやってきたのは。一頭は雪のように白く、一頭は炭のように黒かった。(略)
二人が馬を駆って池を回ると、馬体が傾斜して優美な弧を描いた。(略)
二人が立ち去ってから、人々はやっと我に返った。そうして分かったのは、司馬鳳と司馬凰が頭をそれぞれ一発ずつ撃たれていることだった。(p347 『豊乳肥臀・上』)

「公開性」に希望を見出そうとしてもダメかな〜

twitterデリダを検索してみたらmuto1988さんという方の文章を見つけた。

白井聡氏は、民主主義の2つのモメントとして水平性と公開性を上げており、現状における後者の不徹底を指摘し、「暴露」(レーニン)をコミュニケーションの手段として理解する。しかし、デリダが『死を与える』で明らかにしたように、「暴露は不可能」である。(以上 muto1988発言)
http://twitter.com/muto1988/status/17750621353

@muto1988 しかし、デリダが『死を与える』で明らかにしたように、「暴露は不可能」である。:ふーんそうなんだ。いまp188まできたが、よく分からないなあ。議論の流れが掴めず、のれない。

狂騒的・ダイモーン的なものを(魂への配慮による善への上昇(プラトン)を経由して)責任によって規律化していくのがヨーロッパの歴史だというパトチェカの論を、デリダは批判しているのか。ふむ。広瀬さんの解説によれば。

責任とは、他人の前で自分の行いやその結果を引き受けること、つまり公共的な場における公開性を前提とする。しかし、(キルケゴールによるアブラハムに示唆を受け)絶対的無責任として現れる危険を抱えたところの、秘密を秘密のまま体内化するという責任もある、とデリダは論じると。p375解説 (以上 野原)
http://twitter.com/noharra/status/17780574064

私にとっては「公開性」というのは死守しなければいけないタームなので、思わず引用してしまった。

「体内化され、そして抑圧された秘儀が破壊されることはない。」「歴史はそれが隠しているものをけっして抹消しない」ネット上に残したメモでページ数は分からないのですが、同著より。 @noharra
@noharra 私は「暴露が原理的に不可能である(=暴露は秘密を保持する)」ことについては、「一 ヨーロッパ的責任のさまざまな秘密」の読解で理解しました。あるいは誤解かも知れませんが。 (以上 muto1988発言)
http://twitter.com/muto1988/status/17780989166


muto1988さんという方は、白井聡さんの議論をtwitterで紹介しておられる。

「新しい社会原理=規律は、本来的な人間性なるものからやって来るのではない。それは「どこからも現れようがない」。すなわち、それは無から生成してくるほかない。ゆえに革命によって人間が「もの」へと還元し尽くされたときー人間性が無へと達したときーに、それは姿を現しうる。」(p. 152)
http://twitter.com/muto1988/status/17749912484

私はというか(松下昇フォロワーとしての私は)「新しい社会原理=規律」の萌芽を探している。でもって、(飛躍するが)上の「この二人の子供を銃殺にするのがどんなにつらいか、分かりますか?」というセリフを読んだときに感じるものがあったのだ。
デリダが説くように、死を与えることは超越を現出させる。ここで超越はまあ99%最悪のスターリニズムに転落するのだが、それが本質と言いきるべきではない。
魯立人が設定した「闘争大会」その公開性を限りなく拡大し、例えば60年後の現在その継続大会をやるといった試みにおいて、その転落しない可能性をどこかに見出すことができるはずだ、と私は言いたいのだ。

*1:http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040825 http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040831#p1 現在日本語訳入手不可能

*2:isbn:9784022574282 絶版 この本は必読だと思うが

*3:「咥え」はもっと難しい漢字を使用。 p331 同書

*4:http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040831

*5:「おそれとおののき」筑摩世界文学体系p159

*6:『創世記』第22章、アブラハムによるイサク奉献の物語 参考http://d.hatena.ne.jp/charis/20100627

*7:p160