松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

見境倶棄

見渡せば花ももみぢもなかりけり浦のとまやのあきの夕ぐれ 定家(秋)

有名な歌である。しかし、内容は「花ももみぢもない」ということ。不在を正面から歌っている。

義浄三蔵の云はく

聖教八万あれども、要はただ二つあり。内には真如を凝らして、見・境*1ともに捨て、外には俗途に順じて禁を護り、罪を亡(ぼう)せよ。

と云えり。
無住 沙石集 巻10末-11-10 p581 isbn:409658052X

義浄の「南海寄帰内法伝」では、「真如」ではなく「真智」が使われているようだ。見・境ともに捨ては「見境倶棄」。
主観と客観ともに捨てる、というのはなかなかすごいなと思ったので引用してみた。学問とか知というのもはいくらでも高度化し対象を細かく正確に分析できたと自負する。何もしならない私がいうのもなんだが、それがどうしたという気もするんだよね。対象は分析するが分析主体はメタレベルにあるので絶対にその存在様式の色合いとかに意識を向け記述するということはありえない。例えばデリダの正義論は必ずしもそうではないと思うのだが、デリダを論じる人は論じる「わたし」を全くもっていない。自分がやっていることにせいいっぱいなのだ。
義浄や無住の問題意識と無関係にこんなことを書いてもしかたないのだが。
ちなみに定家は1162年生まれ。無住は1226年生まれ。なので60年ほど違いがある。ついでに義淨(ぎじょう、635年(貞観9年) - 713年(先天2年))
で、義浄の見境の否定と、定家の歌は関係ない。・・・

*1:主観と客観