松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

岡野八代関係

この本の同じ第三章「<わたし>の自由と<われわれ>の責任」については
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050310 で触れました。
第五章 遅れる正義/暴力のあとで については下記で、
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050119#p4
第四章 暴力・言葉・世界について に下記で触れました。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050312#p4
他者はどこにいるのか?問題については、下記も読んでください。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050312#p1

3/10分から、ちょっとだけペースト。

わたしとは「何ものにも先立つ自由な主体」でなければならない、という西欧の知の根拠にある前提を、わたしもまた無意識のうちに受け入れているのだ。

 自由が責任に先立つという前提が<わたし>という同一性を構成し守っている。だが同一性とは錯覚によって守られているに過ぎないのではないか。世界よりもむしろ<わたし>のうちに「裂け目/切断」がある、その可能性を認めなければならない。