松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

消えゆく他者

例えば http://www5.justnet.ne.jp/~takataka2001/linkp03.htm によれば、私が何か発言するとき、「私は常に他者によって呼びかけられているのです。」とデリダは、考えたらしい。
「私の責任は、私の措定以前に、(略)他者の呼びかけへの責任=応答可能性というレベルで既に始まっている。(略)責任は根元的には、<他者への応答>でしかない。応答することから始めなければならない。」(『アデュー』より)
たまたまこの引用元である『アデュー』というのはデリダによるレヴィナスに対する追悼の本である。がadieu という言葉には下記のような含意があるらしい。「 レヴィナスにおいて「アデュウ」(adieu)はa`-dieu(神 -へ)と読みかえられ、「私」と絶対的他者としての他人との倫理的関係を創設するような倫理的出来事を意味する。(河合孝昭 http://www.copula.net/mag/vol_2/venir01.html)」より

で、絶対的他者とは一体何なんだろうか?
レヴィナスはしばしば、死者達に対する生きている者達の責任、罪責について語る。それがホロコーストの犠牲となった無数のユダヤ人達に対する、われわれ後世の生き残りの責任を意味していることは言うまでもない。(河合)」べつにあえて難癖を付けたいわけもなんでもないが、*1レヴィナスが死んだのは1995年、現在ほどではないが、パレスチナ人に対するイスラエル国家の暴虐はずっと以前から続いていた。ホロコーストを絶対的という形容詞とともに考察することは、イスラエルの暴虐を見ない振りをすることとシンクロしていた。という指摘は充分可能である。

「私は常に他者によって呼びかけられているのです。」という発想は魅力的である。
だが他者とはふと一瞬現れ次の時間には意識の外側に逃れ去るといったそういう存在ではないのだろうか。私たちが特権的に考察しなければならない他者とは、瀋陽総領事館駆け込み事件のキム・ハンミちゃんである。彼女はその後家族と共に無事韓国へ亡命したから彼女自身について気遣いを持続しなければならないわけではない。だが「中国にいる30万人の北朝鮮脱出者と、北朝鮮の2000万人の同胞の生活の大変さ」という問題は現在のものだ。(脱北者が30万人もいるのかどうか分からない。日本には数字にすぐケチをつける恥知らずなレイシストが多い。)キム・ハンミちゃんという固有名において記憶された悲惨は、他の難民たちのうえに大きく持続していると意識しうると思います。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040113 1ヶ月以上前に書いた、野口孝行さんと脱北者二人は中国当局によって拘束されたままです。日本の世論が盛り上れば情況も変わっていたでしょうが。えーこの文章は直接社会批判を呼び掛ける趣旨はありません。他者について考えているのです。他者は確かにそこにいる。だが世界中には数十億の他者が存し一々考えることなどできません。誰でもどの他者について考えるか選択を行っているわけです。脱北者はいつも後回しになる。北朝鮮がずっと遠くの北アフリカにあったら日本人はもっと関心を持ったかもしれない。ヨーロッパ人が騒げば日本人の一部は確実に影響されるのです。が隣の国北朝鮮に大きな関心を持っているあるいは持つべきだと考える人は現政権を通じての国民への浸透という回路だけを追求し、脱北者=難民を絶対的に見ようとしません。
ユダヤ的な解釈はそれ自体、(呼びかけられる側の)安全化の戦略だ。僕は少なくとも責任にかんして、デリダレヴィナスを信用しない。」という北田暁大氏の文に刺激を受けて以上書いてみました。http://d.hatena.ne.jp/gyodaikt/20040106

*1:レヴィナスのことを何も知らないのでケチの付けようがない。