松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

死者(幽霊)とともに生きる

末木さんの本を読んだりしてつぶやいてみた。わけの分からないことを分かりにくく書いているので読みにくかろう。問題意識の提示にとどまり、それがどうしたという説得力を持たないので弱い、私の文章は。
コピーして敷衍できるかどうか考えてみよう。

『仏典をよむ』末木文美士 を読んでる。面白い。 紹介:http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20090601bk03.htm isbn:9784103864028
posted at 09:28:44(8/13)

仏教というのは普通「空の思想」と言われる。末木文美士氏のこの本はちょっと強調点が違い「死からはじまる仏教」という前半のタイトルのとおりになっている。死というのは私達が生きていく上で珍しいものではなく、不可避のものである。しかし哲学的には、私という認識と身体の外にある定義不可能なものになるのではないか。


第3章のタイトルは、他者と関わり続ける−−『法華経』、となっている。

末木文美士の菩薩論:「驚くべきことに、菩薩の菩薩たる所以は、いま突然始まったことではなく、無限に近い過去に遡る。その間ずっと釈迦仏の教えを受け続けてきていたというのである。菩薩であることの根拠は、この無限の過去からの仏との関係以外にない。他者との関わりは、無限の過去から続いて
いる。それが原罪の他者との関わりを作り出し、未来へ続いていく。過去・現在・未来を通して、他者たる仏と関わり続けること以外に、菩薩の菩薩たることを作り出すものは何もない。」『仏典をよむ』p68 以上が強調されるのは、如来蔵・仏性説批判という文脈においてだ。如来蔵とか呼ばれる
仏の要素が衆生の中に内在し、それが現実化することによって仏の悟りに達する(ことができる)とするのが、仏性説。この場合、他者(仏)は理論的にはなくても悟りに到達できることになる。
無限の過去から修行続けた菩薩とか何の興味も感じなかったが、上の文章を読んで感じるところがあった。
posted at 09:31:39

如来蔵批判については下記で触れている。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20060521#p4
わたしたちの存在の根拠は白、つまり、白=仏性〜本覚〜真如であるという思想について、「ヒロヒト非退位〜無罪論」〜「東条英機無罪論」に絶えず傾斜していくイデオロギー=「日本人の思想」に反対していくんだという当為において反対している。
しかしまあそれは外側からの批判になるだろう。
「菩薩というものが、無限に近い間ずっと釈迦仏の教えを受け続けてきていた」という。それがどうしたというようなものですが、遠い物事、パレスチナ問題や南京大虐殺問題そうした物事を、自分たちに無縁と切り捨てるのではなく、実は決して遠くなく自分たち自身の問題でもあるのだ、そうしたことを考えているとき、釈迦仏との絶対的距離を持ちながらそれでも平然と修行し続ける菩薩というあり方を雄弁に描いた先人が居たことを知ったことは私に勇気を与えた。それだけであり、私が菩薩のように修行に身を捧げるとかそうした決意をしたわけではない。如来蔵思想を否定するというのは思想の問題であり決意の問題ではないのだ。

法華経の「見宝塔品」の多宝如来:『仏典をよむ』p74 多宝如来とは塔の中に座ったまま禅定に入ったミイラ仏である。末木は「グロテスクな感がしないでもない」とその即物的な死者性を強調する。その後「二仏並座」という場面が来て、釈迦は死者と一体になり巨大なパワーを発揮する、と解説する。
posted at 09:43:54

死者と合体・変身して巨大なパワーを!と少年漫画的説明の仕方をしている。少年漫画といっても新しい訳ではなく、人間の想像力の幅は昔からそんなに変わらないわけである。
先日、渡辺義治さんの「悲しみの南京」という劇を見た。これは必ずしも政治的な劇ではない。被害−加害といった大きすぎる関係の中で、死者(被害者)に取り付かれたある人が、そのオブセッションとの関係をどう収めるかといった筋でもある。この話の場合は死者と和解しても特別なパワーを得られる訳でないが、粗筋としては共通していると考えることもできて興味深かった。
グロテスクなものを人はつい避けてしまうが、まあ無理に避けなくとも良い、教訓としてはそういうことになるだろう。

日本人は8月にだけ戦争と死者のことを思い出すと揶揄されるが、思い出すのは悪いことではない。 死者を自分に都合の良い(例えば「国を護るために死んだ」とか)イメージで考えて済ませてしまう、これがいけない!死者は逆襲する。被害者として見捨てた死者も、さらに皇軍が無残に殺した死者も逆襲する。
posted at 09:51:43

死者は逆襲すると前近代の人は信じていたあるいは信じているようなふりをしていた。しかしそれは前近代のこと今は違う、と人は言うだろう。しかしそれは真実ではない、かもしれない。

(戦死した)死者は逆襲する。について、国民的漫画家水木しげるも執拗に描いている。私達の戦争総括において決定的に大事な事なので、下記を参考に水木しげる自伝(上中下)講談社漫画文庫をぜひ読もう。参考:http://bit.ly/ax0ktt http://bit.ly/apNK1i
posted at 12:39:36

うちのブログの代表的記事ですのでよろしくお願いします。

「幽霊たちとの面談=維持、交際、仲間づきあいのなかで、幽霊たちとの交流なき交流のなかで、幽霊とともに生きることを学ぶ=教えることに。別様に、そしてよりよく生きることを。いや、よりよくではなく、より正しく生きることを。ただしあくまで彼らとともに。(略)この<ともに>なしには」デリダ
posted at 12:48:00
「他者との共在はありえず、仲間=社会要素はありえない。」p13

「いかなる正義も、何らかの責任=応答可能性の原理なしには思考可能でない。一切の生き生きとした現在の彼方における責任=応答可能性、生生した現在の節合をはずすものにおける責任=応答可能性、まだ生まれていない者もしくはすでに死んでしまった者たちの幽霊の前での責任=応答可能性なしには。」p14
posted at 12:50:38

デリダの引用はhttp://bit.ly/94G1cn より。 責任=応答可能性というのは、すでに死んでしまった者のように不可能であったり、仲間づきあいなど出来ようもない幽霊たちと<ともに>生きること。 常識とはまったくイメージが違う。
posted at 12:54:00
デリダマルクスの亡霊たち』isbn:9784894345898

私の身の丈以上の他者とか死者とかと付き合う、あるいは取り付かれる体験について、触れてきた。デリダの場合、「幽霊」といった言葉を使う。
正義という言葉を敬遠しようとするシンドロームに私達*1は大なり小なり囚われているが、おろかなだ。
すでに幽霊がここに居る以上、正義とは多少ともマシな方法に過ぎない。

*1:宣長漢意(からごここ)批判以降の日本人