松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

kuronekobousyu 『>元従軍慰安婦であれ、沖縄の犠牲者であれ、他者としてこのブログには登場している。しかしそれはブログに私が取り上げたという私の恣意を媒介にしているのであって、私は取り上げないこともできた。こういうのは「他者の声」とは言わないのですよね?であれば、他者の声とはどういうものでしょうか。
従軍慰安婦とか沖縄の犠牲者とかの告発が、具体的な他者の声だと思いますよ。彼らの声を野原さんが捏造したのではないわけでしょう? 野原さんの目の前にいる他者のみが具体的な他者ではないと思います。「私の恣意を媒介にしているのであって」と書かれていますが、その恣意の契機になっているのが、その他者への野原さんの「応答責任=応答可能性」だったのではないですか?

>結局のところわたしの危惧は、斎藤の論=「罪Schuldの重荷」論になるのでは、ということなのかもしれない。

高橋哲哉の「恥じ入り続ける」という言い方には私も抵抗があり「罪Schuldの重荷」論を感じますが、斎藤純一の論はそれとは異なります。

長くなりますが、正確さを期すために下記に斎藤の意図を引用します。

「・・・私たちは「日本人」としての他者の名指しを退けるべきではない。しかし、このことは「日本人」の一員として、他者から断罪される位置に自らをおきつづけなければならないということを要請するわけではない。次の二つの点に留意したい。第一に、他者による「日本人」としての名指しを受けとめることと、私たちが自らを「われわれ日本人」として積極的に定義し直すこととの間、「日本人として問責される」ことと「日本人として責任をとる」こととの間には、決定的な違いがある。「日本人」としての自己定義は、集合的表象をあらためて打ち立てる方向性をもつが、「日本人」としての名指しを受け入れるべきなのは、そのように問いかける他者との間で再−交渉のプロセスを開始するためであって、加害者集団のアイデンティティをもって被害者集団に向き合うためではない。私たちに求められているのは、集合的表象の応酬に陥らないような、あるいはそれに抗することのできる公共圏を具体的に創出することであって、他者による集合的な定義づけに抽象的な自己表象=「われわれ」をもって応じることではない。重要なのは、集合的な主体をアイデンティファイすることではなく、自−他の間にある問題をアイデンティファイすることである。
 第二に、私たちと彼/彼女たちとの間の歴史的関係は圧倒的に非対称的であるけれども、その非対称性は相互性を拒むわけではない。一方が問う(告発する)側でありつづけ、他方が応える(謝罪する)側でありつづけるわけではない。一つのモードに固定したコミュニケーションは、やがて関係そのものの破綻を導くだろう。(・・・)共通の歴史的出来事を違った仕方で経験しているという非対称性は、他者の立場にたつということが根本的に不可能であるという自覚を求めるけれども、そうした歴史的経験の違いは、双方の間に私のものでもない公共の認識や記憶を形成していくことを妨げるものではない。むしろ、それぞれの国民が自らの過去を排他的に所有するのではなく、国民の境界を横断する記憶や歴史認識を共有していくためには、同じ出来事をまったく違った仕方で経験してきた他者との語りの交換こそが不可欠である。私たちと他者の記憶が脱−領域化されるかどうかは、そうした相互的なモードのコミュニケーションがどれだけ深まるかにかかっているように思える。」(p90〜−91「政治責任の二つの位相」、『戦争責任と「われわれ』所収、ナカニシヤ出版)

>「君に責任はある」と言うことによって、君と呼び掛けられた人から何を獲得しようとしているのかが、よく分からないのです。

斎藤の「普遍的責任としての政治的責任」、つまり<君>を呼び込むことによって<私>を含めた公共性の獲得を、私なり言い換えてみたのですが、うまく通じなっかたようですね。』