松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

黒猫さん amoさん コメントありがとうございます。
(amoさん うちのコメント欄はどんどん使ってください!)
ゆっくり議論するため、上にコピペしました。
(その後、amoさんのコメント8/29の二つ目の欄に移動しました。)
が、どうもうまく考えられない。・・・

(1)如何に他者の声に耳を傾けるか、という課題(応答責任)
どうもわたしは具体的にしか考えられないのかな。
従軍慰安婦であれ、沖縄の犠牲者であれ、他者としてこのブログには登場している。しかしそれはブログに私が取り上げたという私の恣意を媒介にしているのであって、私は取り上げないこともできた。こういうのは「他者の声」とは言わないのですよね?であれば、他者の声とはどういうものでしょうか。

(2)

宮台真司はブログで、西ドイツの大統領だったヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーの「1945年5月8日〜あれから四十年」と題した記念講演(「戦争を知らぬ世代」も戦争責任を負うべし)に言及しながら、行為(別様の選択可能性)が「罪=過去言及」を生み、関係(選択不能な所与の事実性)が「責任=未来言及」を生む、という論点を展開しています。(黒猫)

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=277 
ヴァイツゼッカーの議論は二つ目的がある。第一に、これらの個人補償の将来的継続を「責任Haftung概念」で正当化する。第二は、にもかかわらず「戦争を知らぬ世代」を、ネオナチ的反発の生じやすい「罪Schuldの重荷」から解放する。実に周到な目的設定だ。(宮台)

 結局のところわたしの危惧は、斎藤の論=「罪Schuldの重荷」論になるのでは、ということなのかもしれない。

(3)

僕ならば、やはり日本語で語りかけるでしょうね。効果はないかもしれないが、応答に期待するしかないでしょう。

「君に責任はある」と言うことによって、君と呼び掛けられた人から何を獲得しようとしているのかが、よく分からないのです。