松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

# id:kuronekobousyu 『コメントありがとうございました。

>神はいないとする無神論を自覚的に選択した私にとって、「他者の声に耳を傾けるか、という課題」とは、神をそこに措定しようとする未練な思想的態度に見える。

高橋哲哉が言っているこの場合の他者とは、具体的な他者のことだと思いますが?
この具体的な他者から不正義を告発された時、<法=正義>(北田暁大なら、「弱い責任論」)は、その境界/限界を露呈するのではないでしょうか?

>「つまり相続放棄なら簡単に出来るが」という前提がおかしいと思う。

負の遺産相続が正の相続よりも多ければ、大抵の人は簡単に相続放棄を選択するでしょう? だが、野原さんの言われるように「わたしは日本語を捨てて生きることはできない」し、仮に日本語を捨てたとしても過去に日本語を生きてきた歴史は解消できないわけですから、その意味で「遺産相続」の比喩は不適切だと言いたいわけです。仲正氏の言わんとすることには理解しているつもりですが。。

>日本語を捨てて生きるとまで決意した人間に対して、なおかつ何を何語で語りかけるのか? そしてその効果は何か。

なるほど。面白い視点ですね。
僕ならば、やはり日本語で語りかけるでしょうね。効果はないかもしれないが、応答に期待するしかないでしょう。これが、たぶん斎藤純一のいう「普遍責任」の意味するところではないかと思ったりしますが、僕もじゅうぶんに納得できているわけではい。こう言えばどうしょうか?
「僕にも君にも責任はあるし責任を問う資格もあるが、だからといって総懺悔すればいいわけではない! 責任を問い/問われる優先順位はあるのだから」。』 (2005/08/27 18:56)