松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

# noharra
『黒猫さん わたしの1ヶ月ぶりくらいのRESに対しすばやい応答ありがとうございました。
なんかちょっと私がどんどん加藤典洋化していっているといわれそうでちょっと嫌な感じですね。(笑)
野原さんのお好きなデリダ、とか言われてしまったが、『死を与える』はp58に栞をはさんだまま放置してあるし。やれやれ。
以下ごく一部だけ応答します。

・・・「それから引用する場合は文脈がわかるように引用してください。」
んついてですが、申しわけありません。

「上記の引用は私(黒猫房主)の発言ではなく、斎藤純一氏からの引用(斎藤純一「政治責任の二つの位相」、『「戦争責任と「われわれ』所収、ナカニシヤ出版))ですから、それを明記してください。」
了解。註の形で明記しました。

(5)

>私が「責任論の位相」を書いたのは、当の加害者でない者が「なぜ責任を引き受けるべきなのか」の説得的な論理を考えたいからです。大澤真幸氏(「責任論」)や北田暁大氏(「責任と正義」)と問題意識は、いちおう共有しているんですが、普遍的に(規範理論として)語れなければネット右翼なども説得できませんよね。

ふーむ。わたしにはどうも「普遍的に(規範理論として)語ること」に対するとても強い警戒があるようですね。
「当の加害者でない者が「なぜ責任を引き受けるべきなのか」の説得的な論理を考えたい」という問題意識はわたしにはありません。
仮に黒猫さんの立場に立ったとき、戦後60年経った現在なぜその問いが必要になるのか、60年間は無だったのかという問いにも答えなければいけないですね。

斎藤氏も、大澤真幸氏(「責任論」)や北田暁大氏(「責任と正義」)も論文を書いている、つまり「普遍的にしか書かない(書けない)」というルールの内で文章を論理を綴っているだけだ。とわたしは思います。論文というルールが<普遍>というものを成立させているだけなのです。したがってそこで成立した普遍は、その立場を共有しないネット右翼などには、先験的にも実践的にも無効です。

これ以外の論点についてはぼちぼち書けたら書いていきます。議論の進行の仕方がランダム!な感じですみません。』 (2005/09/18 11:01)