松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

普天の下、王土に非ざるなく、

『漢文入門』*1から引用します。

 温という国の人が周に行った。周は客(他国人)をいれない。「之に問うて曰く、『客か』と。対(こた)えて曰く、『主人(そこの土地の人)なり』と。その巷(町名)を問へども知らざるなり。吏因(よ)りて之を囚(とら)ふ。」君主は(代理人を通して)之に問う。「周の人でないのに、客に非ずというのは、なぜだ?」対えて曰く、「臣わかきとき詩を誦(しょう)せり、曰く『
普天の下、王土に非ざるなく、卒土の濱(ひん)(はて)、王臣に非ざるなし』と。いま君は天子なれば、即ち我は天子の臣なり。」人の臣であって客であることはありえない。だから主人と言ったのだと。君主はこれを解放した。(韓非子 より)(漢文と訳ごちゃまぜのいいかげんな引用。)

古代中国においてはまさに王(天子、帝)はどこまでも続く地平線の果てまでの民を、自らの臣としているという発想があったわけです。王とは支配の別名ですから、朱子的にいえば「理」でありまた20世紀的には「近代人権思想」とも接続可能です。日本は戦後狭くなっただけではなく、視野が一国主義的になり外国といえばアメリカなどの欧米を意味するようになった。本来は「普天の下、王土に非ざるなく」という西欧起源ではない普遍感覚は日本人のうちにも存在していたのに。
というわけで、ここでも野原は野口孝行氏の解放を訴えているわけで、中華を名のる国家元首であるなら、どうかこのエピソードを思い出し、北朝鮮と中国の国境線によって人は印を付けられ差別されるという思想をとらず、彼らを解放してやってほしいものです。

*1:isbn:4000201018 この本は1957年発行の本なのでisbnなんてついてないかと思っていたら1992年版にはちゃんとついていた。