松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

# kuronekobousyu 『論点が多いのでおずおずと応答します。うまく応答できるかな(微笑)。

>「相続放棄するように」単に副詞句でしかなく、それがなくとも文意は通ります。「所与の事実性(先験的選択)とその関係をすでに生きてしまっていることは、解消できません。」何らかの関係(親土地国家等)というものの中で関係に関係しながら成長するのが生きることですから、この文章は否定できない。

時間が経過したのでお忘れかと思いますが。。。。「相続」とは元々は仲正氏の発想で、戦後責任の引き受け方を相続のアナロジーで説明したものです。氏の意図はわかるものの「適切な表現ではない」と私が意見し、それに対して野原さんが「国籍―国語(ex,日本語)―文化等からの離脱」として相続放棄の可能性を示唆したわけですね。それで「相続放棄するように」と私が受けたわけなので、文脈との関係では「相続放棄するように」は単なる副詞句ではありません。

>「それは言い換えれば、所与の歴史性に如何に応答するか、如何に他者の声に耳を傾けるか、という課題(応答責任)でもあると思います。」この次の文章との繋がり方が問題点ですね。後者の文章は「戦争責任云々」といったなにがしかの限定された「責任」についてのもので、在るのに対し前者はいつどんな処でもあてはまるべきまったく普遍的な命題です。

これはご指摘の通りだと思います。いわゆる「戦犯」とされる刑法上の「戦争責任」と高橋氏が問う「戦後責任」には、ヤスパースの区別した「政治的責任」の要素と「道義的/形而上的責任」にちかい「応答可能性=応答責任」が混在しているようには思います。それで、仲正氏が内面的な反省は強制できないと批判しています(「日本とドイツ 二つの戦後思想」p41)。しかし高橋氏は「戦後責任」(講談社学術文庫)の中では、政治共同体である「日本国民」としての政治的責任である旨を明言してはいますが。。。。

>他者の名指しという<最初の一撃>によって、わたしたちは日本人になる。という形で、「他者の名指し」を形而上化しているのではないでしょうか。

その可能性は否定できない。それは野原さんのお好きなデリダレヴィナスを批判したのと同じ位相でしょう。たぶん(微笑)。それと一切の形而上性を排除できるのかというのは疑問です。それから私たちが言語を介する限り代理表象は不可避ではないでしょうか。

>「私たちは他者の名指し(要求)を退けるべきではない。」というのは政治的あるいは運動論的には、ある場合是認されるでしょう。しかしそれは、「私たちは「日本人」としての他者の名指しを退けるべきではない。」という命題を成立させることと等しくはない。

上記の引用は私(黒猫房主)の発言ではなく、斎藤純一氏からの引用(斎藤純一「政治責任の二つの位相」、『「戦争責任と「われわれ』所収、ナカニシヤ出版))ですから、それを明記してください。
後者の「私たちは「日本人」としての他者の名指しを退けるべきではない。」というのは、倫理的要請ではないでしょうか。
例えば日本国籍を離脱した人に、アジアの人から「日本人批判」を受けたとします。その場合に「自分は日本国民ではないから無関係」だとしてすぐに反論/無視するのではなく、元「日本国民」としてそのアジアの人と一緒に「日本」の責任や課題を「集合的表象の応酬に陥らない」地平で論じあうことの可能性に掛けるということではないでしょうか。これが、斎藤氏の意図する「普遍的責任」論に繋がってゆく発想だと思います。

>わたしとあなたはある同じ国家の構成員です。それ以外にも他者の名指しによって「日本人」とカテゴライズされるべきなのでしょうか。*1

こういう批判は、かつて上野千鶴子氏によってもなされました。それはある日本の若者が、「国民」というのは「私であること」の一要素であるにすぎないのに、やすやすと「日本国」と「私」を自己同一化して韓国人被害者に謝罪し号泣したことへの、上野氏の批判です(「ナショナリズムジェンダー」p193青土社)。私もやすやすと「日本国」に自己同一化すべきではないと思いますが、上野氏も注意を喚起しているように「個人と国家を同一視するなという主張が、加害国民の責任を免罪するということの証明」にはならない(同書、p193)。

>「私たちと彼/彼女たちとの間の歴史的関係は圧倒的に非対称的であるけれども、」、非対称性は歴史的関係という過去の領域ではなく発語するこの私の発生という存在の領域を規定していないでしょうか?

それはそうだと思います。斎藤氏も否定しないでしょう。斎藤氏のいう「歴史的関係」とは過去から継続する、まさに現在も進行形の非対称性だと思います。それとも、野原さんは「発語するこの私の発生という存在の領域」という普遍的なテーマを措定されているのですか。

とりあえず、ここまでとします。(3)以降のテーマは後日ということで、お願いします。それから引用する場合は文脈がわかるように引用してください。』 (2005/09/17 15:47)