松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

責任と普遍性

黒猫さま

責任論という話題での応答が遅れてすみませんでした。あまりにも時間が経ってしまったので、何が論点だったのか忘れてしまったよ。というか議論の前提がまったく共有されていないことが判明して二人とも驚いていたのか?
苛立つとすぐ攻撃的口調になるかもしれないという危惧を抱きつつ、注意しながら書こうとしてみます。
整理できないので思いついたまま書いてみます。

(1)
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050827#p1 への応答。

★しかし、所与の事実性(先験的選択)とその関係をすでに生きてしまっていることは、相続放棄するように原理的には解消できません。それは言い換えれば、所与の歴史性に如何に応答するか、如何に他者の声に耳を傾けるか、という課題(応答責任)でもあると思います。(黒猫)

相続放棄するように」単に副詞句でしかなく、それがなくとも文意は通ります。「所与の事実性(先験的選択)とその関係をすでに生きてしまっていることは、解消できません。」何らかの関係(親土地国家等)というものの中で関係に関係しながら成長するのが生きることですから、この文章は否定できない。
「それは言い換えれば、所与の歴史性に如何に応答するか、如何に他者の声に耳を傾けるか、という課題(応答責任)でもあると思います。」この次の文章との繋がり方が問題点ですね。後者の文章は「戦争責任云々」といったなにがしかの限定された「責任」についてのもので、在るのに対し前者はいつどんな処でもあてはまるべきまったく普遍的な命題です。
下に引用された斎藤氏の長い文章に対しても「普遍について論じているのか、限定について論じているのか」という不明確さは、指摘できないこともないと思います。

(2)

むしろ、それぞれの国民が自らの過去を排他的に所有するのではなく、国民の境界を横断する記憶や歴史認識を共有していくためには、同じ出来事をまったく違った仕方で経験してきた他者との語りの交換こそが不可欠である。*1

「・・・私たちは「日本人」としての他者の名指しを退けるべきではない。しかし、このことは「日本人」の一員として、他者から断罪される位置に自らをおきつづけなければならないということを要請するわけではない。(同上)

他者の名指しという<最初の一撃>によって、わたしたちは日本人になる。という形で、「他者の名指し」を形而上化しているのではないでしょうか。
「私たちは他者の名指し(要求)を退けるべきではない。」というのは政治的あるいは運動論的には、ある場合是認されるでしょう。しかしそれは、「私たちは「日本人」としての他者の名指しを退けるべきではない。」という命題を成立させることと等しくはない。
わたしとあなたはある同じ国家の構成員です。それ以外にも他者の名指しによって「日本人」とカテゴライズされるべきなのでしょうか。*2
「私たちと彼/彼女たちとの間の歴史的関係は圧倒的に非対称的であるけれども、」、非対称性は歴史的関係という過去の領域ではなく発語するこの私の発生という存在の領域を規定していないでしょうか?

(3)

この具体的な他者から不正義を告発された時、<法=正義>は、その境界/限界を露呈するのではないでしょうか?(黒猫)(修飾句略)

これは下記も含意しますよね。

具体的な他者が不正義を告発しなかった時、<法=正義>は、その境界/限界を露呈しない、と。

わたしの理解では特権的に語られるべき<他者>とは、半ば幽霊的存在であり、一貫して「不正義を告発しつづける」という確固たるものとはイメージされません。
このイメージの相違が議論の食い違いになっていくようですね。
AがBを殺したとき、Bは死んで語れないしAは罪責感故に語らない。
AがBをレイプしたとき、Bはトラウマのゆえに語れないしAは罪責感故に語らない。
このように誰にも語られ得ないがために法的に立証されない空洞こそが事実の核心に在る、と思います。
責任が語られ続け、飽きられてしまってもなお語られ続けなければならないということがなぜ生まれてくるのでしょうか。
事実はあるアクロバティックな飛躍によってしかわたしたちの下にやってこないものなのか?それとも、もっと平明にそこにあるものなのか? 後者の事実観だけがなぜ疑われることなく通用しているのでしょうか。
60年前から中国大陸は日本から海を隔てたかなり遠くにあり、敗戦はその距離を拡大したこと、この距離が問題を作り出したのではないのでしょうか。だというのにいつもインテリは距離など存在しないかのように普遍的にしか語れない。

id:noharra:20050824#p1 から二つの断片を引いておきます。

 絶対的な犠牲者、それは抗議することさえできない犠牲者です。人はそれを犠牲者として同定することすらできません。それは、自己をそれとして提示=現前化することさえできないのです。(デリダ

「小さな少年が後頭部をV字型にざっくり割られたまま歩いていた。」このような文は確かにありコピー可能だった。でもそれはおよそ信じべからざるものであり、「自己をそれとして提示=現前化すること」に成功することなく消えてゆく。(野原)

というわけで私の理解では、「この具体的な他者から不正義を告発された時」、の「具体的他者」とは「具体的他者」ではなくただのインテリの良心の擬人化なのではないでしょうか。

(4)
インテリの良心は必要です。であればなぜ以上の文章は書かれたのか。自己の良心による判断をそうではなく普遍的であるかのように語ることに対する反発が、ネット右翼など巨大な潮流になっていると考えたからです。
以上、自分でも迷いながら書いた文章ですが、例によって攻撃的に成りすぎているかもしれません。ご容赦ください。

*1:斎藤純一「政治責任の二つの位相」、『「戦争責任」とわれわれ』所収、ナカニシヤ出版)ISBN:4888485135 http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050827#p3 の黒猫氏転写部分から孫引き

*2:気持ちは分かるような気もしますが議論なので無視していこう。