松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

# kuronekobousyu 『(3)以降の論点について。★脱字で意味不明になっていたので、訂正追加してアップし直しました。

>>この具体的な他者から不正義を告発された時、<法=正義>は、その境界/>>限界を露呈するのではないでしょうか?(黒猫)(修飾句略)
>これは下記も含意しますよね。
>
>具体的な他者が不正義を告発しなかった時、<法=正義>は、その境界/限界を露呈しない、と。

まず「不正義感覚」とは、狭い意味での実定法によっては合法的だが、「それはやはりおかしいよな」という感覚であり、それによって狭義の法=正義は問われるのであり当事者関係には限定しているわけではありません。第三者によっても異議申し立ては可能ですから、野原さんがABの事例を出されたサバルタンのような場合は、代理告発ということも可能性としては必要でさえありえる場合があるのではないかと思いますが、その点については如何ですか。

>わたしの理解では特権的に語られるべき<他者>とは、半ば幽霊的存在であり、一貫して「不正義を告発しつづける」という確固たるものとはイメージされません。

私は高橋哲哉氏が「従軍慰安婦」と呼ばれる方々の「語り」に触発されて、その不正義を告発する運動を展開していると私が理解した限りにおいて、その「従軍慰安婦」と呼ばれる方々を「具体的な他者」だと思ったわけです。そして私は彼女たちの告発も苦渋に満ちた末の行為であろうと推測する故に、その意味ではもともと彼女たちは「幽霊的存在」でもあったわけで、<一貫して「不正義を告発しつづける」という確固たるもの>というように野原さんが断定されることには、おおいに違和を感じます。またその彼女たちの背後には、いまなお多くの沈黙したまま過去を隠している幽霊的存在の他者がいるのではないでしょうか。

> 絶対的な犠牲者、それは抗議することさえできない犠牲者です。人はそれを犠牲者として同定することすらできません。それは、自己をそれとして提示=現前化することさえできないのです。(デリダ

まさにサバルタンですよね。このようなサバルタンを野原さんは「他者」と考えるわけですが、それでどうするわけですか。これは「審問」として野原さんへの「問い」ではなく、下記の野原さんの疑問に繋げたいからです。

>というわけで私の理解では、「この具体的な他者から不正義を告発された時」、の「具体的他者」とは「具体的他者」ではなくただのインテリの良心の擬人化なのではないでしょうか。(野原さん)

う〜む。私は立岩真也氏の「制御できない他者」(「私的所有論」勁草書房)というのを、「他者」のイメージとして第一番に考えます。つまり。「私」が代理も出来ないし/すべきでもなく、かつ「私」を躓かせるものとして、「他者」がすでにおり「私」がいる。そしてその「私」のあり方の中にも「制御できない他者性」が含まれている、とね。そのような状況で「私」が何が出来/出来ないかを考える。但し「出来ない」を出発点にすると何も始まりませんし、「出来ること」だけを考えるのは「しないこと」の言い訳にならないように自戒しながら。

>インテリの良心は必要です。であればなぜ以上の文章は書かれたのか。自己の良心による判断をそうではなく普遍的であるかのように語ることに対する反発が、ネット右翼など巨大な潮流になっていると考えたからです。

私が「責任論の位相」を書いたのは、当の加害者でない者が「なぜ責任を引き受けるべきなのか」の説得的な論理を考えたいからです。大澤真幸氏(「責任論」)や北田暁大氏(「責任と正義」)と問題意識は、いちおう共有しているんですが、普遍的に(規範理論として)語れなければネット右翼なども説得できませんよね。』 (2005/09/18 09:57)