松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

『大地の風』 「女が辿った敗戦--満州の彷徨」


一冊の本の紹介をしたい。『大地の風』、玉田澄子さんという方が書いた小説、自伝的ドキュメントだ。副題が、「女が辿った敗戦--満州の彷徨」という。とも言えるだろう。
日本人が先の戦争を振り返るにあたって、確認しておくべき、満州からの引き上げ体験、その大きな振幅を見事に物語った小説として、これは優れている。機会があればぜひ読んでください。

 「琿春(こんしゅん)の満人市場には、私を誘い出すのに十分な匂いや音が満ちていた。豚肉の焼ける匂い。トウモロコシのはぜる音や香ばしい匂い。マントウの蒸し上がる甘い匂い。どれひとつとして口に入るわけではなく、ひもじさを募らせるだけの満人市場だが、私は乞食に出かける母の目を盗んで、その辺りをよくうろついたものだった。*1


玉田さんの一家は、岐阜県の郡上郡和良村(わらむら)出身。昭和十六年、国策にそって満州に和良村の分村開拓団が拓かれることになり先遣隊が派遣され、著者の父もその一員となる。場所は北朝鮮ソ連との国境に近い現在の中国東北部吉林省琿春県(当時は間島郡琿春県)。*2

1945.8.15「大東亜戦争」は終わった、という。しかし主人公たち旧満州開拓民の苦難は、それをさほど遡らない8.9ソ連参戦の日から、始まった。そして何時終わる(日本に帰れるか)かは分からず、中には中国やシベリヤの地で亡くなる者もあり、また帰還できないなま「残留孤児」となる者もいた。

そのさらに少し前7月下旬主人公澄子の父は、41歳、乙種合格にもかかわらず、召集される。
関東軍は、ソ連軍の追撃を阻むために、橋や道路を破壊して、老幼婦女子の開拓団員が南下する退路を断ち、関係者のうち8万人もの死亡、行方不明者を出したのだった。国家が全力を挙げて救わねばならぬ同胞、それも最も弱者である開拓団の老幼婦女子を見殺しにしてしまったのだ。*3
守ってくれるはずの関東軍は開拓民を守ってくれなかった。逆に、自立自衛の要になるべき壮年男子を根こそぎ召集していったのだった。


8月9日、ソ連軍が侵攻して来て開拓団は避難することになる。その日、出産したばかりの澄子の母も、4人の子を連れ避難の列に加わる。琿春橋は直前に軍によって破壊されていて渡れない。大変な苦労をして橋を渡る。さらに混乱のなか列車で省都間島*4の小学校に至る。「わたしには家を出てから省都の学校へ収容されるまでの二日間は、何百里、何千里にも感じられる長い道程であった」*5と著者は書く。
ところが落ち着く間もなく、9月10日その学校からも退去命令が出る。食糧事情の悪い間島ではこれ以上多くの難民の面倒は見られないとの理由で。琿春に帰ることになる。*6しかし元の開拓地はすでに地元民(朝鮮人満州人が半々)に奪われている*7。街外れのあばら屋に入る。生まれたばかりの妹が死ぬ。


このように限界状況はずっと続く。食糧の配給という点では、その時でも軍隊の方がずっとマシだった。シベリア抑留であっても。


この小説は、6歳でこの地獄を体験した少女がそのことを書き残したいとそれをテーマとして抱えて数十年後に実現したもの。その核心はなんだろうか。
正確な文章を書こうとする文章の力。書くために彼女は文章修行した。戦後の時代らしい、すこしモダンな文体だが極限状況を直視し描写しきっている。
さらに、悲惨、悲劇とは何か、ということ。生きるためにはそれまで善良な小市民として身につけた習慣や倫理をすべて自分で捨てて行かねばならない。それだけではない。


自分のなかにあるどうしても直視できないような〈悪〉をも引き出してしまう。極限状況を生きるとはそうしたことである。

 ことに弱者の神経は鋭敏に働き、本能的に身構える。そして絶えず危機感を伴って歩いた幼い自分を思い出す。
 ある休憩地で耳にした先行の開拓団での出来事を、私は凍えるような心で聞いた。親が足手まといになる子供を二人、川へ投げ捨てたという話だった。とっさに私は母の顔色を窺った。確かめずにはいられなかった。今し方通り過ぎてきた崖っぷちが現場らしい。私は空を切って落下する二つの小さな体を想像した。そしてそれが三つでなくてよかったと思った。私はとにかく自力で歩いている。二つならば、まず赤ん坊と妹が選ばれるだろうと。*8


わずか6歳であっても、〈悪〉はしのびよる。というか、偏在する悲惨を書こうとし続けるなかで彼女はいやおうなく一つのテーマ、純粋の被害者がそれ以外の何者でもないのになお〈悪〉に染まらざるをえないというテーマに出会ってしまったのだろう。
わずか6歳の過去の自己の内に〈悪〉を発見することは苦しいことだ。しかし、コミュニティ全体が悲惨に飲み込まれ、個に解体されながらその状況にむきあうしかなかった1年間、それを書こうとすることもまた十分苦しいことであるのだ。

 列強が湧け取った世界地図を、遅巻きながら塗り替えようとした帝国主義者たちの目論見は〈五族協和〉〈大東亜共栄圏〉といった美名をかざして、庶民とはほど遠いところでシナリオが書き上げられていた。作者や演出家に逆らうことのできなかった私たちは、彼らの意のままに役者に甘んじて生き、いとも簡単に舞台の上で死んでいった。大上段に構えた役者の演技が、今から思えばいかに愚かしく滑稽であったとしても、忘れ去ってしまうわけにはいかない。

(略)あの時代を否応なしに演んじさせられた人々が、生命を賭して、信念や節操や愛、全てを擲って演じてきた舞台なのである。*9


 市井で平凡に生き平凡に死んでいくはずだったわたしたちが突然、生と死を賭ける大芝居の主役になってしまう。そのとき私たちは存在の善と悪を何倍にも拡大して表現してしまわざるを得ない。それを追体験するのは、身を切られるように辛いことだ。
そして、他者には想像もできない不幸を体験した者は、皮肉な事にその不幸自体によって他者から疎外されることになる。同情してくれる人もいるだろうが、それも上っ面のそれにすぎないとしか感じられない。不幸にあった者だけが、不幸の責任を取りつづけて生き続けなければならない。


 それなりの苦難はあったにしろ裸で異族の間に放り込まれるような苦難は内地にはなかった。国家の政策として「開拓植民」があったのだから、それは国家に従ったすべての共犯である。理解できないからといって、引き揚げ者の不幸を直視しようとしないのは間違いである。


「大地の風」 スーパー源氏

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著者略歴などこちらにあり


本書の願いから、出版直後に『大沢基金』が設立され、多くの読者の共感を呼び、平成5年には支援組織『微風の会』ができました。

*1:p8 同書

*2:「対ソ連への戦略的観点から、主にソ連国境に近い満州北部が入植先に選ばれた」とウィキペディアにもあるが、琿春はソ連国境に近いが満州東南部。「1991年、国連開発計画は、この地域(琿春・ポシエト・羅津)の開発に300億ドルを投資し、20年間にわたってこの河川の下流に「第二の香港、シンガポールロッテルダム」を建設するという豆満江(図們江)地域開発計画を発表した」という文をウィキペディアで見つけた。つまり世界的視野から見ると日本の真向かいにある羅津港と一体と見なしうる地域。しかしその計画はまだ進展していない。

*3:大地の子』3p96

*4:現在の延吉市

*5:同書p74

*6:「街道沿いで野営をするようになると、炊煙を見たソ連兵が毎晩やってくるようになった。子供を寝かせ、私だけは遠く離れた粟畑、豆畑の畝の間に身を潜ませて夜を明かす。こうした恐怖の夜が明けると、連日の行進が続けられる。」同書p87 名文だと思う。

*7:元々彼らから奪ったものだが

*8:同書 p84

*9:同書 p32