松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

凍り付いた大地とひまわりの種

わたしは冷凍されガチガチに固まってもはや冷感すらうしなった固体の肉、そうしたものを心の奥に抱えている、本当は、と言った。彼女は、。
私はある革命事件への参加者だ。ゲバラ(「チェ 39歳 別れの手紙」)のような本物のゲリラである。本物のゲリラは物語のなかのそれと違い、ひたすら埃っぽく不潔で徒労に満ちている。しかし私は若く同志とその目的(革命と新国家建設)を信じていた。私たちは次第に孤立化し同志は次々に殺されていった。*1
わたしはついに捕われた。そして幸運にも数ヶ月で釈放された。
しかしどこに帰ればいいのか。故郷に戻れば、死んでしまった人以外に知り合いは沢山いる。しかし当然ながら友人は元の友人ではない。血で血を洗う内戦で一方の側に立ち敗北した者は、権力から徹底的にマークされるだけでなく、友人のはずだった友からも冷たくされてしまう。そうしなければ友人自身疑われてしまうからそれもやむを得ないのだが。*2
・・・
結局私は日本に来る。1958年、逮捕釈放されてから7年後に。

八方ふさがりの息の詰まるような生活をするよりも、日本に行けば自由になれる、という思い一つしかありませんでした。日本に行けば天国のみたいな生活が送れるに違いない、そう考えて結婚を決めました。*3

しかし彼女には密航するだけのお金やコネクションは皆無だった。韓国中で味方は病弱な母親ただ一人だったのだから。彼女は究極のサバルタンの選択をする。誘われるままに、在日韓国人の中年男の第二夫人になったのだ。独立運動家を父に持つ誇り高い両班の家系の彼女が。

わたしは年はまだ若いし、字で書くと愛というのはたった二文字だけれども、わたしはその愛というものが何なのかもまったくわかりません。それでもわたしは親がくれた名前を汚したくはない。わたしはこんな人間ですけど、もし、可哀想に思ってくれるならば、年齢は二十歳も年の差があるけれど、結婚します。*4

ところが男が妾を作った事に怒ったその男の日本人の妻は、自分名義になったいた財産をすべて処分し出て行ってしまう。男は財産をすべて失ってしまう。そして天国のはずだった日本での苦労ばかりの生活が始まる。


金東日は済州島朝天面に1932年に生まれた一人の女性である。
この度、「漢拏山へ ひまわりを」副題「済州島四・三事件を体験した金東日の歳月」という本を出した。*5
巻末に年譜がある。

1947.3.1 済州島三・一節事件発生。
1947.9月 朝天中学院入学(二期生)、民愛青に加入し、連絡係として活動。
1948.4.3 16歳、四・三抗争勃発、引き続き連絡員として活動。
1948.11月 軍討伐隊が中山間地域から海岸地域へ住民を避難させる租界作戦を実施した。その後、山へ連絡に行き、山から下りることができず、同志と共に漢拏山(ハルラサン)で逃避生活を送った。
1949年春頃 警察に検挙された。済州警察署留置場で100日間拘禁生活。
1949年7月 裁判後に光州刑務所に移送され三ヶ月ほどの獄中生活を送った。釈放後に叔父を頼って珍島(チンド)に定着。
1950.6.25 朝鮮戦争勃発。
1950.6月末 珍島郡党委員長秘書として活動。
1951.3月頃 全羅道智異山(チリサン)付近で軍討伐隊により逮捕された。光州、珍島、木浦(モッポ)警察署を転々と移動したが、同僚の父親の奔走により釈放された。

彼女は漢拏山でのパルチザン活動に参加しただけなく、智異山でのそれにも参加した。
〈四・三〉は「事件」と呼ばれ、朝鮮戦争は「戦争」と呼ばれる。戦争とは物事を国家の視点から見ることである。朝鮮戦争のなかにも〈四・三〉と同じく建国と民主主義を求めた南朝鮮民衆の立ち上がり存在したこと、その事実も認めなければならない。


この本は小さな本だ。インテリでない庶民が自分の言葉で語っているので、これだけで歴史を知ることはできない。分析や微細な描写はない。しかし、

インテリたちは心変わりしてしまうけれど、何の知識もない人はかえって一つのことを知ればその一つのことだけを信じている。

と彼女は言う。*6
一つのこととは何だろう。

15歳の時から戦い始めましたが、こんなふうに命だけが残っていますが、あの頃戦ったことは後悔していません。(略)たとえ贅沢な暮らしはしなくとも、若いころに命をかけた戦いは正々堂々としたものだったと思います。*7

一つの敗北した闘い。あまりにむごたらしく。


それでも生き延びた一つの意志は、明日、ひまわりを咲かせるだろう・・・

*1:といっても殺された現場を見たわけではない。運動の現場に居るということは身の回りのごく狭い範囲しか見聞できないことだ。まして私はまだ幼く政治状況の分析などできなかった。

*2:済州島に帰り)仕事は片っ端から何でもしました。畑に行って草刈りしたし、何でもしました。一緒に山に入った人たちの遺族は、怖がって、私とは口も聞きませんでした。もちろん一緒に活動した人たちとも話もしませんでした。かといった不思議なのは……反対側の人たちも罵ったりもしませんでした。影では何か言っていたのかもしれませんでしたが、少なくとも私の前で何か言うようなことはありませんでした。同書p105

*3:同書 p108

*4:同書 p108

*5:isbn:9784884000905 C0036正確には、金昌厚が著し李美於が訳した本となっている。金東日さんへのインタビュー。

*6:同書 p73

*7:同書 p168