松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

わたしは原理たりえない。

私たちの自律における私たち自身の絶えざる創出という原理
フーコー*1

フーコーは「啓蒙」と人間主義の混同をいましめ、啓蒙が自分自身について持ってきた歴史的意識の中心にある原理として上記を掲げる。


フーコーはむしろ、啓蒙を「現代性(モデルニテ)の態度」といったものと関連づけて考えるべきだとする。
ボードレールは、現代性を「一時的なもの、うつろい易いもの、偶発的なもの」によって定義した。*2しかしそこに例えば日本的無常観との類似を見てはならない。

反対に、それは、この運動に対して、一定の態度を取るということなのだ。そして、この意志的で困難な態度は、永遠的な何かを、〈現在〉の瞬間の彼方にではなく、またその背後にでもなく、その瞬間自身の裡に、捕まえることに存するのだ。(略)
それは、現在の瞬間の裡に、「英雄的な」ものを掴むことをゆるす態度のことなのだ。*3


さてしかし「英雄的なものを掴む」とはどういうことだろうか? 

(前略)世界全体が眠りに就く時刻に、彼だけは仕事を始め、世界を変貌させてしまうからなのだ。その変貌は<現実的なもの>の無効化ではなく、<現実的なもの>の真理と<自由>の行使との間の困難なせめぎ合いに属するものなのだ。「自然な」事物はそこにおいては「自然以上」になり、「美しい」事物は「美しい」以上のものとなる。*4

例えば印象派の画家たちが「英雄的なものつまり美を掴む」活動を行ったことはわたしたちは理解できる。ただそれは、哲学ないし思想においてどのような事態なのか?

それは、自分自身に対して打ち立てるべき関係の在り方でもある。(略)
現代性は、人間を、自分自身を作り上げるという使命に縛り付けるのである。*5

さてそう言われてもなお謎めいている。

この批判が<系譜学的>であるというのは、私たちが行いえない、あるいは、認識しえないことを、私たちの存在の形式から出発して演繹するのではなく、私たちが今のように在り、今のように行い、今のように考えるのではもはやないように、在り、行い、考えることができる可能性を、私たちが今在るように存在することになった偶然性から出発して、抽出することになるからだ。*6

 私たちは「今のように在り、今のように行い、今のように考えるのではもはやないように、在り、行い、考えることができる可能性」を持つのだろうか? フーコーはもちろん持つという前提で語っている。革命は可能だ、と。つまりここで主張されているのは「演繹的革命思想」に対する「分かりにくい革命思想」の優位である。
フーコーの系譜学は「わたしが今のように在り、今のように行い、今のように考えている」というのがどのような事態であるのかを明らかにした。しかし明らかであるのはフーコーに取ってだけであり、わたしというものは常に「わたしが今のように考えている」というのがどのような事態であるのかを理解しないモードにおいてのみ生きているものなのだ。この文章の基本的分かりにくさはこの点にある。


ところで逆に、「わたしが今のように考えていることは絶対に疑いえない」という前提を絶対的に維持し続けようとするとどのようなことになるか?
ネット右翼たちの言説はそのような「前提」が、全くの誤りの繁茂に行き着くしかないことを雄弁に語っている。
したがって「わたしが今のように考えていることは疑いえない」という前提を、無自覚であっても取ってはならないと私は考える。
唐突な展開だが私にはそう思えるので、フーコーは馬鹿げたことではなく、私たちにとっての希望をどこに求めるべきかを示唆していると思える。のでありました。
(5/11UP)

*1:p384「啓蒙とは何か」フーコー・コレクション6 isbn:4480089969

*2:p375同書

*3:p376 同書

*4:同書p378

*5:同書p379

*6:同書p386