松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「最後の審判を生き延びて 劉暁波文集」の後書きの偏向!

最後の審判を生き延びて 劉暁波文集」岩波書店 3360円が売っていたので、買ってきた。 


訳者解説という題の後書きを読む。丸川哲史鈴木将久の連名の文章だ。*1

本書は、主に劉氏が90年代後半から香港などで発表していたエッセイや評論、そして一九八九年の六四天安門事件への哀悼や個人的な親しい人への想いを表出した詩、及びその他の資料によって構成されている。*2

だのに、筆者はこんな風に語り始める。

本書は、結果的に「〇八憲章」至る劉氏の思想の道筋を指し示すものであるならば、「〇八憲章」に起因する逮捕からノーベル賞に至る出来事の連関についても幾つか問いを立てておく必要があろう。

「〇八憲章」以後に起こった国家による逮捕起訴有罪幽閉とノルウェー国家によるノーベル賞とその波紋は、劉暁波の思想や行動ではなく他者が行ったことである。”劉暁波による「民主」、その他 を解説する”としながら、最後に説明すれば良いことをなぜ最初に語ろうとするのか、不思議である。しかも「説明しておく」と普通に語れば良いのに「幾つか問いを立てておく必要があろう」と見えを切る必要が何故あるのかわからない。

「〇八憲章」は署名者が2008.12.23には6191人、2010.10.4段階(第23次集約)では一万人余りに達している(中には海外に出た「民主人士」や国内の党員も含まれている)。ただもう一方、署名をしなかった人々もいる。「〇八憲章」はすぐに削除もされず、多く転載、コピーされ、また多くの人がこの内容を知るところとなっていた。つまりこの内容を知った上でも署名をしなかった人々が存在する。このことをどう考えるかを一つ目の問題としたい。*3

「〇八憲章」が平穏無事に公開され署名者を集めたように書かれている。

劉暁波が検挙された12月8日、やはり「〇八憲章」署名者の張祖樺(チャンツゥホウ)(元共産主義青年団中央委員で八九民主化運動で除名)も警察に連行されたが、十二時間ほど尋問され、十日に一旦釈放された。やがて、各地で当局が主な署名者に対して監視を強め、「お茶を飲もう」、「談話をしよう」という名目で取調べを開始した。そして誰が首謀者で、どのように計画し、何を目的として背後にいかなる組織や外国の陰謀があるかなどと締め付けを強めた。
また当局はインターネットの署名を妨害し、サイトを閉鎖した。*4

2009年12月に藤原書店から出た上の本の解説では、劉燕子氏は、このように書いている。日本人の読者は署名をしただけで12時間も尋問される可能性など考えもしないのだから、岩波本解説は平穏無事に公開され署名者を集めたかの印象を与えるように、読者の誤誘導を目的に書かれているかのようだ。

一般的に中国の外からの臆見として、「〇八憲章」は中国現体制の価値観と真正面から対立するものとして表象されがちである。しかし「〇八憲章」の前言にもある通り、現在の憲法にもすでに「公民の基本的な権利と義務」に関連して「人権の尊重と保障」が書き込まれており、また憲法第二章の「公民の基本的な権利と義務」に関連して、「言論、出版、集会、団体の形成、行進、デモ、宗教などの自由」が表記されている。ということは、問題はそれが実行されていないことである。*5

まさにのとおりだ。したがって当局は誤りを認め劉暁波を直ちに釈放すべきだろう。
李鋭ら共産党老幹部による公開書簡によれば1982年憲法第35条に言論の自由などが明記されている、しかし「この条文は制定以来二八年間実施されたことはなく、党と政府が制定した「執行」の細則によって否定されている。このように原則的には認めながら具体的には否定するという偽民主は、世界の民主主義史における醜聞となっている。」*6

だから問題はそれが実現されていく具体的道筋にありそうだ。

言論の自由憲法に定めているのなら、言論の自由を行使しただけの劉暁波を罪に問うのは普通に考えるとできないはずのことだ。自らの憲法に照らし釈放していけば良いのだ。
この一文がおかしいのは、劉暁波の有罪を本来あるべきものではないととらえるのでなく、ある歴史段階における必然であるかのように国家の責任を免罪した上で語っている点にある。


現在の憲法体制と「〇八憲章」の最大の違いとして、解説者は「いわゆる国家形態の構想の違い」を挙げる。この違いとは何か具体的には解説者は言わない。*7

現在の国家形態を「〇八憲章」が指し示すような形へと転換することーーそれが今の中国においてどれだけ必要なことであり、またどのように実現可能なことなのか、という議論が浮上する。*8

ところが次に書かれている秦暉(清華大学歴史系教授)の議論はちょっとニュアンスが違うもののように感じた。


秦暉氏は

「〇八憲章」はかつてヴァーツラフ・ハヴェル氏などが中心になって著名運動を展開したチェコスロバキアの「七七憲章」を多く模倣しているとして、しかし社会状態が違う現在の中国においてそのような手法は有効だろうか、と問いを立てる。秦氏は、現在の中国においては「署名」を求めるような運動方式ではなく、思想の闘いを展開するのが有効だという。なぜなら、1977年のチャコスロバキアにおいては恐怖の圧制が第一番の課題であったが、現在の中国において喫緊の課題はむしろ経済問題だ、と言う。さらに同氏は、チェコスロバキアには元々から民主憲政の歴史的記憶が深く、またすでに高福祉社会が実現しており、その上での「自由権」の主張は適合的なものであった。しかしそのような歴史的前提がない中国においては、それよりも、福祉や公共サービスをどするかという「生存権」の議論の方が重要であるが「〇八憲章」にはそれがない、と主張するのである。*9

秦暉氏の主張は、ありうべき議論である。「〇八憲章」は現在まで社会変革の契機になりえていない。運動を仕掛ける別のもっとよいやり方があったかもしれない。また経済問題あるいは格差問題が重要であるとして、法律を作って富を再配分できればすれば良いだろうが、中国の現状では法律を作っても官僚は行いを改めないだろう。社会変革していくエネルギーを作り出していくしかない。


この文章は「署名をしなかった人々」というものを5回ほど書いて強調している。あたかも「署名をしなかった人々」という劉暁波批判の共通の意志をもったグループがいるかのように、読者に印象づけようとしている。
しかし「署名をしない」理由などと言うものは個々ばらばらであるとしか判断しようがないものである。また前記のように、警察などからの嫌がらせを嫌って「署名をしない」人々も多かったに違いない。
結局のところこの解説の文章は、劉暁波の価値を貶め、中国当局のやり方を少しでも弁護しようとする方向性に貫かれている。御用知識人の作文である。


かって「だめ連」周辺分子として知られていた丸川は、その思想はどうあれ、強大な権力と癒着した教授先生といったものとは非常に遠いイメージをもっていた。わずか10年ほどでこのような文章を書くほど堕落するとは悲惨である。

*1:後書きが連名なのはめずらしい。

*2:p381

*3:p382

*4:p294「天安門事件から08懸賞へ」

*5:p383

*6:p146「環」劉暁波特集

*7:9、結社の自由:国民の結社の自由権を保障し、現行の社団登記許可制を届出制に改める。結党の禁止を撤廃し、憲法と法律により政党の行為を定め、一党独占の統治特権を廃止し、政党活動の自由と公平競争の原則を確立し、政党政治の正常化と法制化を実現する。http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/597ba5ce0aa3d216cfc15f464f68cfd2 とかを念頭においているのか?

*8:p383

*9:p384