松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

きみは路上にたおれて背をまるめ

・・・ブラウン管の映像がとぎれる瞬間、きみは路上にたおれて背をまるめ、血まみれでたち上ることもできず、乱打されつづけている。そのとききみの全身がただ苦痛であり、そしてうめきである、そこから視線をひるがえして、どんなことばの領域にかえってゆくことも、それてゆくこともできるとは、ぼくはおもっていない。・・・


・・・みえるものがみえるところにいるのであるかぎり、ぼくはただその外にいる・・・


・・・だがもしかれが、苦痛とうめきのさなかに、かれの行為に集約されたすべてのことば、みえるものを映すためのことばが乱打され破壊され、孤立だけがのこり、肉体が無言のなかへ無限に入りこんでゆく、そのような持続であったとすれば、そこにとどくことができるのは共同声明ではなく、詩の本質である。・・・


詩でもないこの最初の一行がしばしば暗唱されるのを私は聞いたことがある。全共闘とその直後の時代精神を代表する断片である。

・・・デモンストレーションをつきぬけ、そのむこうがわにまで達した孤立は、もはや事件ではないのだ。とどまることのないうめきがなりつづけている。さめることのない悪夢である。(略)1960年1月に、羽田近くの道路上で、雨にこごえて立ちつくしていた。そのときからおなじ姿勢で立ちつづけるほかない、そういうなかでぼくははじめて、(略)*1・・・

著者は菅谷規矩雄、1936−1989、詩人・批評家、「凶区」同人。「1960年1月羽田近くの道路上」とあるが、安保ブントの影響下に全学連安保闘争の一局面(街灯デモ)に参加したことを指している。ただしこの文章「アドレセンスの証明」は現代詩手帳1968年1〜2月号掲載である。*2*3


「デモンストレーションをつきぬけ、そのむこうがわにまで達した孤立は、もはや事件ではないのだ。」今年文学・思想界の最大の事件は劉暁波ノーベル賞受賞だ。しかし私見では、劉暁波の栄光は「デモンストレーションをつきぬけ、そのむこうがわにまで達した孤立」にあるのであり、受賞は世界大のスキャンダルにすぎないことが確認されなければならない。ノーベル賞が価値がないわけではない。彼らには彼らの立場がある。*4 しかし問われているのは、「劉暁波に自由を!とお前は言うのか」ということである。この問いに諾と答えるのは易しい、日本人が。


しかし実際に「劉暁波に自由を!」と言っている人が極まれであることは、そこにある困難を示していよう。自己(あるいは言葉)に対する潔癖さを持っている日本人が多い。つまり、「劉暁波に自由を!」と日本で言うことは安全だが、中国で言うとすれば覚悟がいる。その覚悟は私にはないので(日本語でも)言わない。
短く言えば、正義は私が荷うには重すぎるということで、それはまあ事実ではある。*5 だが一方で庶民は常に虐げられその時正義を求めるしかないこと、を日本人は忘れてしまった。


日本人が劉暁波を知らないのには、日本人の側の理由がある。しかし、劉暁波の側の理由もあるのだ。


劉暁波が確認するのは、相手と自己との間のもっと冷たく絶対的な関係だ。
「十七歳は路で倒れた/路はそれきり消えてしまった/泥土に永眠する十七歳は/書物のように安らかだ」http://d.hatena.ne.jp/noharra/20101007#p1 
六四(天安門事件)で死んだ若者に向き合い、彼はこう書く。絶対的な無念の中で死んでいったはずの死者に対し、彼は「安らかだ」という言葉をかける。何故だろうか。しかも「書物のように安らか」とはどういうことだろう。書物というのは大抵恋愛や反抗、欲望など安らかの反対語で満たされているものではないのか?


「十七歳は何の怨みも抱いてない」とぼくは分かっている。これが第一連で確認されたことだ。この「十七歳」は蒋捷連という暁波にとって身近な犠牲者を指す。*6 これは天安門事件(六四)二周年に書かれた詩だ。わずか二年だが、その間も暁波は囚われていたこともあり、蒋たちのことをひたすら考えるのに十分の時間を持つことができた。その結果「十七歳は何の怨みも抱いてない」と暁波には分かった。死者は怨みを抱かない、昔の中国人の結論とは違うが暁波はそう結論した。つまり死んでしまった蒋たちのことは百パーセント、私たちの側の問題なのだ。


泥土に永眠する十七歳は、閉じられた書物のように安らかだ。脂ぎった欲望に書物が満たされているように思えようとそれは錯覚であり、書物は自分では一言も主張できないし、していないのだ。
永眠する十七歳を想起する、そこにあるのはただの美しい死体だ。彼はこの世界に何の未練も留保もない。


絶望もない。しかし死体を媒介に*7、蒋は自身の母親に何かを託す。
託されたものは静かに歩みつづける。−−「十七歳へ」というのはまあこのような詩だ。


1960年代の日本というのは特権的な死者の時代だった。「1960年6月道路上で(あるいは国会構内で)安保ブントの影響下に全学連安保闘争に参加した樺美智子」という22歳の女性。ついでに言えば、親が大学講師だった点、蒋と樺には共通点がある。つまり1991年に暁波が書いたこの詩も、本来なら全中国の若者に巨大な影響力を及ぼしたかもしれない。その可能性は十分あった。*8


「全身がただ苦痛であり、そしてうめきであるとき、どんなことばの領域にかえってゆくこと」もできない、と菅谷は指摘した。この指摘ははなはだ貴重なものだ。


死者は絶対的に沈黙しておりしたがって美しい。しかし暁波は死者を美化してしまうことに耐え、一篇の詩を作成した。


被殴打者は生き続ける。生きてることは、職場や組織、ビラ作成などの場所に戻ることだ。苦痛やうめきをおきざりにしたままで。
しかし、空疎な言葉を吐きつづける日常に戻ったとしても、苦痛やうめきを徐々に忘れていくとは限らない。そのようである言葉への不信を保持していれば、別の言葉を小さく叫ぶ機会は常にめぐってくる。

*1:略の内容は「しかもなお一篇の詩がそれを証明するものたりうることを、ぼくは知っている。」「詩がすでにたしかめえている場処がそこにあることをみいだした。」の二つ。 詩への信が私にないのでここでは省略。

*2:この時、いわゆる全共闘、「1968年」の時代精神を流布した雑誌だったといえる。

*3:p103『詩的60年代』イザラ書房 1974年刊

*4:中でも、一貫して劉暁波支援の声を上げつづけたベツラフ・ハベル(ヴァーツラフ・ハヴェルが正しいらしい)などの最初からの連帯は貴重。

*5:「はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ヨハネ13-38

*6:ただこういう「十七歳」の使い方には違和感を感じる。それは中国語と日本語の間の違いからくる。中国では数字で人を呼ぶのは普通にあることなのだろう。

*7:詩には死体はでてこないのでただの想定だが

*8:劉燕子や子安宣邦が言う通り