松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

島薗進氏の怒りの不在

島薗進氏の新著『国家神道と日本人』(岩波新書)を、子安宣邦氏が「怒りを忘れた国家神道論――」という文章で批判した。
http://chikyuza.net/n/archives/3705
それへの応答がこれだ。
http://shimazono.spinavi.net/?p=127#more-127 (以下敬称略)


子安の文章にはたしかに悪罵表現がある。それをどう受け止めるか。
島薗は受け止め損ねていると思う。

「糞食らえ、島薗!」などという言葉が見えるが、このサイトにふさわしいものがどうか十分にお考えいただきたい。

なんだ、この言い草は。論争にドレスコードが必要だ、というのは大学教授の感受性であり思想者のものではない。

子供じみたご発言がご高名を汚しはしないか心配である。

徹底的に、大学教授としてのマナーが大事という価値観を押し出す。で。相手を子供じみたと、揶揄する。


このようなテクニックは論争に負けつつある時にしか普通は使わないものなのに、島薗という人はおそらくコンプレックスがあるのであろう。

『国家と祭祀』(青土社)について、拙著本文中に参考文献として挙示されていないことに不満を述べている。

これは事実だが、論点をずらして子安を卑小な男と見せようとする印象操作が入っている。


子安の論点は明確である。

村上重良は『国家神道』(岩波新書、1970)を激しい怒りをもって書いた。
私もまた度重なる小泉元首相の確信犯的な靖国参拝に対する怒りを『国家と祭祀―国家神道の現在』(青土社、2004)として表明した。

この「怒り」が島薗新著にはない、そのことを子安は批判する。子安の一文は最初から最後までこの論点で貫かれている。それを島薗は最初から卑小化する。


 これらの論考は、『国家神道』や『天皇の祭祀』の著者、村上重良に従って「天皇の祭祀」や国体論をも含めた広義の「国家神道」概念を用いるべきだが、村上の議論の弱点を修正して概念を再建すべきだという主旨で書かれたものである。

 子安氏が「怒って」おられるのは、このプライオリティ問題によるところが大きいのかもしれないが、

子安の一文を読んで、本当にそう思っているなら子安を馬鹿にしているし(まあそれはありえない)、そうでないなら印象操作。

しかし、子安氏はそれとは別の「怒り」をあげておられる。

やっと子安の本来の「怒り」に言及しようとする。しかしその「怒り」って一体何だという読者の疑問には答えず、文章は「その「怒り」の根拠として、」と続く。「怒り」の本体に触れるのが怖いのか?

それが成功しているという子安氏の誇りは尊重したいものだが、国家神道を論じるときつねに戦争遺族の怒りを基盤としなければならないというのはやや狭苦しい発想ではなかろうか。

子安の「怒り」にやっと島薗が触れたのは、こういう形で、である。
しかしこれでは、「村上/子安の怒り」が「戦争遺族の怒り」にスリ変わっている。「村上/子安の怒り」と「戦争遺族の怒り」はイコールである、あるいは「戦争遺族の怒り」の代弁であると島薗は考えているということだ。


「戦争遺族の怒り」はどこにでもある犠牲者の怒りにすぎない。「村上/子安の怒り」はそれとは違う。大東亜戦争/敗戦/戦後という歴史過程において、天皇制/日本というものが大きな弯曲を経ながら生き残った、そのあり方に対する異議申し立てであり、思想の問題である。
島薗はなぜ子安の「怒り」を思想の問題として真正面から受け止めることをしないのか。

 戦後の問題を論じたのは今日の日本の国家と宗教の関係について、従来「政教分離」の基準と考えられていたものが世界的に問い直されている状況を踏まえて、考え直そうとしたものである。もちろん、他国にまして「厳格な政教分離」だというの議論があるが、それは事実なのかといった事柄とも関わり、靖国問題や皇室祭祀を含めた現代日本のゆくえに関わる重い論点を論じる基礎となるべきものである。国際比較は国家神道を論じる際、一つの重要な問題であり、「国家神道は現在も生きている」というのはそのような問題意識をも含めたものであるが、子安氏にはよく理解できなかったようだ。

どう論じたのかがこの文章からは分かりにくい。「国家神道は現在も生きている」と言うとき思い浮かぶのは、日の丸君が代の強制だが、強制反対の立場は取っていないのか?

島薗はこの基本的な論点で村上重良を支持し、村上がとった広い国家神道概念の立場の再構築をコツコツと進めてきた。村上の広義の国家神道を鍛え直すという堅実な学問的作業は、島薗以外の者は行っていない。

村上がとった広い国家神道概念についての、継承発展者は私だ、と自負している。それは良いが、「怒り」についてはどうなのだろう?


おそらく、島薗は「怒り」は世代的なものであり、思想的なものではない、と判断しているのだ。そして島薗はコンプレックスを持っている。被害を持つ者と持たないものがあり、自分が後者であるというコンプレックスを。
だから、「怒り」というのは徹底的に他者の物であり、自己がそれに向き合うことはないのだ。


自分が例え表面的に被害を持たない者であるかのように思えようとも、その非対等性は存在論的なものではなく、乗り越えることができる。そのような立場に立たず、「戦争」の問題を世代論的に切断してしまう傾向が島薗にはうかがえる、ように思った。あるいはそうではなく学者という範囲内で語ろうとしているだけだ、と言われるかもしれない。しかし、「村上/子安の怒り」というのは戦後思想史の大きなトピックでもありうるものであり、学者としても、卑小化して終わり、というのはおかしい。

国家神道と日本人

という岩波新書さっき買ってみました。最近の神社本庁国家神道化していると明確に指摘しているのは良いのですが、それを政教分離の危機と捉えるのがオーソドックスなのにそれをせず、日本人の宗教的アイデンティティとか言ってみたり、立場のはっきりしないイライラする本だな、という感想です。
isbn:9784004312598 C0214